この複雑な世界で善く生きていくことの困難さについて

糸井礼
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世界は複雑だ。考えなければいけないことが多すぎる。つらい。苦しい。逃げ出したい。それでも私たちは、この複雑で面倒な現実世界を生きなければならない。

不平等。理不尽。差別。偏見。そういったものを、人類は長い年月をかけて明らかにしてきた。その成果が今だ。可視化された世界の複雑さは、到底、今を生きるひとりの人間がまともに抱えきれるようなものではなかった。

世の中には、強い立場の人と弱い立場の人がいて、弱い立場の人は割を食う。Aという属性では立場が弱い人でも、同時にBという属性では立場が強かったりもする。立場の強い、弱いは、自分で選ぶことができないことが多い。自分で選ぶことのできない属性によって、不当な扱いを受けることが「差別」だ。

人種差別、国籍差別、ジェンダー差別、障害者差別、性的マイノリティ差別……差別というものは無数に思えるほど存在している。まだ人類が発見していない差別も、きっとたくさんある。

差別に直面したとき、人間が最初に取る行動はおおよそ同じだろう。「目を逸らす」。「見なかったことにする」。だってそうしないと、自分の心を守れない。差別を受ける側であっても、差別をする側であっても同じことだ。「自分が差別されている/自分が差別している」なんて、そんなことは認めたくない。受け入れられない。

特に、自分が差別をしている側だと認めるのはとても難しい。多くの場合、差別は無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)から発生する。「女は男より弱い」とか、「外国人には犯罪者が多い」とか、そういったものだ。だけど、悪意なく発した言葉が「差別的だ」と他者に指摘されて冷静でいられる人間は、この世のどこにもいないんじゃないだろうか。

「あたりまえ」「常識」とされてきた共通認識の中には、無意識の偏見が数多く存在する。「あたりまえ」を疑い、分析することを試みた人々がいたおかげで、ようやく差別や偏見というものが見えてきた。今まで無視されてきた人たちがやっと顧みられるようになってきて、声を聞いてもらえるようになってきた。それはとても素晴らしいことだ。だけど、多くの人にとって、今まで疑うことのなかった「あたりまえ」を壊されるのは、とても辛くて大変なことでもあった。

今まで考えなくてもよかったことを、考えなくてはいけなくなる。今までは「常識」という規則に従って動けばよかったのに、それは差別的だから変えましょうと言われる。順応することができなければ、悪者のようにされてしまう。悪者にはされたくないから、間違ったことをしないように気を付けて動く。それでも、「悪者にならないで済む」だけであって、自分にとってプラスになることがあるわけでもない。空気を読むというコストをかけて、悪者にならないように気を付けて生きる。これが現在の「息苦しい社会」とされるものの正体ではないだろうか。

自分の生活を維持するために心身をすり減らして生きているのに、自分とは関係ない人たちのためにまで気を遣って生きていかないといけないなんて。そんな余裕あるわけない。今から社会問題について新しく勉強をして、自分じゃない誰かのために意識や行動を変えるなんて無理だ。自分は誰にも支援してもらえないのに、女性は、外国人は、障害者は、性的マイノリティはあらゆる人たちに支援されている。ずるいじゃないか。

そう思ってしまうことは確かだと思う。私は、その思いをないがしろにはしたくない。「正しい」とはされないことだけれども、自分の抱えているつらい思いを無視することもいけない。ただ、ひとつ留意してもらいたいことがある。その気持ちは、他者を中傷したり、社会的弱者の地位向上に反対したりすることを正当化する理由にはならない。社会的弱者が抑圧されている状態は是正されるべきだ。そしてきっと、あなたが感じている「不平等さ」も解消されるべきだ。自分と異なる他者を抑圧するのとは違う方法で。

人間には、自分より恵まれているように見える他者を「ずるい」と感じて足を引っ張ってしまうような暗い心があるのと同時に、困っている誰かを助けると自分も気持ちが良い、という善い心もあるはずだ。だけど、善い行いというものは基本的に余裕がなければできない。だったら、どうして私たちにはこんなにも余裕がないのだろう。何が原因で、私たちは余裕のない生活を強いられているのだろうか。

恐らく、原因は社会構造だ。ネット上でよく見かける男女対立も、根源には社会構造がある。日本では高度経済成長期に、男はサラリーマンとして家の外で働き、女は専業主婦として家の中で働くという性別役割分業が定着した。その後、1987年に男女雇用機会均等法が成立し、女性が社会に進出した。だがその結果、女性は家事や育児といった家庭の仕事に加えて男性並みの仕事ぶりを要求されるようになり、その一方で男性は、仕事量が変わらないままに家庭内の仕事への参加を要請されている。お互いに、どう頑張ったって無理なことをさせられているのだ。無理なことをさせられている辛さや不満は怒りとなり、怒りの矛先は自分と異なる属性の「ずるい」人に向けられる。こうやって、私たちは疲弊し、対立させられてしまっている。

今を生きる人たちは、社会の歪みによって傷付いている。疲弊して、誰かを傷付けて、誰かに傷つけられて、疲弊して、その繰り返し。傷のついていない人なんて誰もいない。こんな負のループを生み出す歪んだ社会は変えなくてはならないけれど、まずは我々が負っている傷を癒すことから始める必要があるだろう。自分の負っている傷に目を向けて、癒していく。少しずつ癒されて回復してきたら、自分と異なる他者にも自分が負ったものと似たような傷を見つけて、助け合う。そうすれば、私たちを傷付けてやまない負のループを断ち切ることができるのではないだろうか。

そのためには、今の自分が何に対して「つらい」と感じているのかを、隠さずに表現するべきだと思う。世間的に正しいとされない思いがそこにあったって構わない。自分を正当化するのではなく、自分の気持ちに正直になることを続けていれば、共感してくれたり、受け入れたりしてくれる他者が現れるかもしれない。いつ、誰かと出会うかは運次第だ。それでも、腐らずに発信を続けていけば、誰かがあなたの話を聞いてくれるかもしれない。誰かがあなたの傷を癒す手助けをしてくれるかもしれない。

私はあなたが、自分を傷付けて殺したり、誰かを傷付けて殺したりしてしまう前に、この複雑な世界で生きることの困難さを、誰かに話したり、文章にしたりしてほしいと思っている。小説や詩を作るのでもいい。絵を描くとか、映像を撮るとか、ゲームを作るとか、そういう表現の仕方もあるかもしれない。あなたの気持ちを、何かしらの方法で、誰かに伝えてほしい。そうして、共感してくれたり、受け入れてくれる誰かと出会って、安心できる環境で話し合ってほしい。自分が抱えている傷と、その痛みについて。

自分に共感してくれたり、受け入れたりしてくれる人など、この世のどこにもいないと思うかもしれない。だけど案外、世界は広い。日本人だけでも1億人以上いるのだから、その中に自分を理解してくれる人がひとりもいないなんてことはきっとない。あなたの理解者は必ずどこかにいる。

だから、どうか諦めないでほしい。この複雑な世界で、善く生きていくことを諦めないでほしい。そしていつか、我々を苦しめる社会構造を変えるにはどうしたらいいかを一緒に考えよう。私は、あなたと協力がしたいと切に願っている。