この文章は、表題の件をめぐる私自身の考えを改めて文字にしたものです。
2023年に、「叫び」という短編を発表しました。競馬を題材に馬と人間の関係を描いたSFで、馬たちを語り手としています。
この「叫び」(をふくむ一連の他作品)への応答として書かれた要素をもつ作品が、近日Kaguya Booksから刊行される『北海道SFアンソロジー:無数の足跡を追いかけて』に収録されると知りました。タイトルは「馬たちの時間」。作者は阿部登龍さんです。
これを受けて私は、Xに次の投稿をしました。
北海道SFアンソロジーに収録される「馬たちの時間」は、「叫び」では書かなかった人や馬の声を掬いあげたような作品なのではないかな…という気がして、前々から楽しみにしていました。
「叫び」は大切な作品だけれど、作中では書ききれなかった人や馬の声もあり、それらの取り零しや切り取りがある種の暴力になってしまっていることは否めない。だから、もしそこに光をあてた作品なのだとしたら…怖いな…という緊張と、でもほっとするだろうな…という予感、どちらもある。
あとね、どうしてもそう語るしかなくてそう語ってしまっているけれど、人間が人間以外の生き物の視点で語るって、代弁を気取るって、どうなのよ…人間ふぜいが…という気持ちが常にあり、人間以外の話を増やしたい! という気持ちとバチボコに殴りあっている、自分のなかで。
自分で自分を殴りながら、人間中心主義に抗うすべを探ってゆきたいね…
これを阿部さんが受けとってくださり、次のような投稿をされました。(Xからの引用を失礼いたします)
(略)>「叫び」では書かなかった人や馬の声を掬いあげたような作品 でいうと、人の声のみを拾うことに徹した、ということになります。なぜなら、おれは動物の声を語ることを自分自身に禁じているからです。これはある種の職業倫理かもしれません。ですが何より、われわれはかれらの声を代弁できない(「すべきではない」ではなく)という事実から出発して小説を書きたいと考えるからです。だから今回もそうしました。当然、作品の読み方は読者に開かれているので、あくまで書き手の意図ですが。また、念のため言えばこれは「叫び」を含む他作品の否定ではなく、応答だと考えています。動物の声を代弁することについては、また自分自身、別の作品で考え、書くことになるでしょう。
深く頷きながら拝読しました。わけても、職業倫理として動物の声を語ることをご自身に禁じている、という点と、“われわれはかれらの声を代弁できない(「すべきではない」ではなく)という事実から出発して小説を書きたい”という点に、共感しました。
これらの点において、阿部さんのお考えと私自身の考えには、きわめて近い部分もあるように思います。
それでも私は、作品を通じてかれらの声を語ることを試みてきました。
その理由について、この機に改めて書いてみます。
以下は阿部さんへの反論や意見ではなく、阿部さんの投稿をきっかけに言葉にした、私自身の考えです。
なお、次のふたつがいずれも「人間以外の生き物の声を語る」に該当するという前提のもとで話しています。
人間以外の生き物を語り手とした、一人称の作品。(私の作品で言うと「叫び」)
視点を人間以外の生き物に置いた、三人称の作品。(「定点観測」や「1/∞の猫」)
私が小説で「人間以外の生き物の声を語る」ことを試みる理由
私が人間であり、かれらが人間と同じ言葉を用いない以上、私にはかれらの声を聞きとることができません。そのような身でありながら、人間の言葉を用いてかれらの思考や感情を描き、あたかもそれがかれらの真の声であるかのように語るのは、たとえ物語のなかであったとしても暴力性をともなう行為であると認識しています。
にもかかわらず、私はかれらの声を語ることを試みています。理由はいくつもあるのですが、今回は、その中でも特に大きなものを選びました。
理由1:かれらに近づきたいから
人間以外の生き物の描き方には、大きくわけて次の2通りがあるかと思います。
人間の側に視点を置く描き方:人間の知覚や価値観を通して生き物を描写する方法。
生き物の側に視点を置く描き方:人間の視点から距離を取り、その生き物がどのように世界を知覚、認識しているかを描こうとする方法。
前者は私たちにとって永遠の他者であるかれらを他者のまま描く方法であり、人間による描写としてはこちらのほうが誠実であるように思います。それでも私は、しばしば後者を選びます。
幼少期からずっと、どうして私は「あちら側」じゃないのだろう、という思いがあります。人間のことも嫌いではないし、人間をやっている自分を楽しんでもいる。それでもなお、自分がこの生において一瞬たりともかれらの側に身を置くことができないという事実を、受け止め難く感じています。
かれらの目に映る世界を見てみたい。かれらがなにを感じ、なにを考えているのかを知りたい。そういった現実では叶えることのできない夢を、私は物語の力を借りながら追いかけているのかもしれません。
しかしこの欲求は、自分が扱っているものは虚構に過ぎず、現実のかれらのなにかをわかったつもりになってはいけないという戒めと、常にせめぎ合っています。
理由2:「(人間以外の生き物の視点から語ることを試みた)人間以外の生き物の話」を増やしたいから
世界には、人間によって作られた人間視点の物語が多すぎます。このことと、人間以外の生き物たちが往々にして声など持たない存在であるかのように扱われてしまうこととは、おそらく無関係ではありません。
いつかかれらが人間と同じ言葉で語りだしたなら、私は即座にかれらの声を騙ることをやめ、かれら自身の語りに耳を傾けることでしょう。しかし現状がそうではない以上、「もしもかれらが人間のようにも語るとしたら」と想像することは、現実のかれらの声を聞きとろうとする行為ともどこかでつながっているのではないかと考えています。
もちろん「私がかれらの声を伝えるのだ!」などとは思いません。私が書くかれらの物語は、どこまで行っても勝手な想像の域を出ない。日々現場や家庭で目の前のかれらの声をかれら自身の言葉のまま聴きとろうとされている方々の営みとは、まったくの別物です。
当のかれらが私の書くものをどう受けとめるのかもわかりません。いつかかれらと共通の言語が持てたなら、まっさきに糾弾されるのは私のような人間かもしれません。
それでもなお、功罪の功の部分に託すような感情を捨てられないのは、他でもない私自身が、かれらの視点の物語たちとの出会いを通じて、かれらとの関係を見直す機会を得たり、より良い形でともに生きてゆきたいと願う気持ちを育まれたりしてきたからです。
これは、信念などではなく、自分本位な願いとして、なのですが……「もしも」の物語が、フィクションだからこそ働きかけられるところに届いたら。虚構のかれらの語りがひとつ増えることで、現実のかれらの声がほんの少しでも聞かれやすくなったら。人間以外の生き物を書くときは、そんな思いが胸にあります。
様々にある理由のうち最も大きなものが、以上のふたつです。このさきはまた、作品を通じて考え続けます。
文中で言及した私の生物SF短編のうち、「叫び」「定点観測」の2編は、こちらの作品集に収録されています。