きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ
須賀敦子最後の著作「ユルスナールの靴」の冒頭である。
靴に関する話を耳にしたとき、必ず頭に浮かんでくるフレーズだ。
この広い世界をどこまでも、どこまでも歩いて行けるという感覚は大切。素晴らしい映画を見たり、音楽を聞いたり、本を読んでいるとき、この感覚を感じる。だからこそ日々を暮らせている気がする。もしも、どこにも行けなくなったらどうしよう?それはその時に考えれば良い気もする。
この世は忙しくブレーキをかける暇はない。もうとっくに新しい靴をはいている。それはとてもよく足になじむ。蹴るように前に進む
これはいしいしんじの「トリツカレ男」のフレーズ。こちらも靴に関連してイメージを喚起される。
同じ本にこのように書かれている箇所もある。
「そのいち。氷の上の私たちは、いつかきっと転ぶ」
「そのに。転ぶまではひたすら懸命に前へ前へとすべる」
「そうだ、ブレーキなんてなしにね」
「そのさん。転ぶとき、転ぶその瞬間には、自分にとって、いちばん大事な人のことを思う。その人の名前を呼ぶ。そうすれば転んでも大けがはしない。そうして転ぶことはけしてむだなことじゃない」
ブレーキ無しに前に進む。そして転ぶ。大切な人が身近にいなくとも、本や映画や音楽に触れることによって、同じ世界を見ている大切な人たちが存在していることは分かる。だから転ぶことができる。
大人になれば苦しみも無くなると思っていたし、立派に日々を暮らせるものだとも思っていた。
確かに上手に暮らせるようになったが、それは取り繕い方が上手くなったという話で、要はどのような社会的セットを着こなすか?という引き出しが増えただけな気もする。その奥底では子どもの頃の恐れや悲しみや喜びが人知れず息づいている。
それでも転ぶことを恐れていた頃と比べ、転んでもまた立ち上がれることを知っている。様々な人との出会いと別れを繰り返し、心の窓ガラスには傷が入る一方だが、傷のついたガラスから見る世界は美しいことも知っている。
「きっちり足に合った靴さえあれば」どこまでも歩ける気持は変わらない。