07:38(2026/07/10に書いた)
昨日は捨てた。身体痛すぎたがあまり動けず、午前を捨て、そのあともまた痛みがぶり返したらと思うと動く気になれず、そのまま午後も捨てた。17時から19時まで眠り、そのあと起きたものの、やる気が一切起きず、「じゃあこのまま寝たら良いや」ともう一度布団に入った。そのまま泥のように眠って、気づいたら5時だった。夢の中で私は実家に帰っていて、実家に届いたさまざまな野菜などを見て、母親に「じゃがいもいくつか持って帰っても良い? 買うと負けた気がするから」と話していた。母からの返答を聞く前に目覚めてしまった。母はわたしにじゃがいもや玉ねぎを送ってくれるんだろうか。
10:49
うっすらとした苛立ちが止まらない。私の人生ってなんなんだろうか? とかについてずっと考えているので、生きていることとかについてずっと考えている。早く死にたいし生きていたくない。正しく言い換えるとしたら、生きていたくないというのが最も正しく、それ以上に言い換えることができない。ただ、死にたいといっていると体良く(決してよくはないが)自分の憂鬱を肯定できる気がするので、そのように言っている。あと、死にたいと言っているほうがありふれている気がしてごまかしやすい気がする。
生きていたくないとすると、より消極的で真に迫った憂鬱がそこにある気がして、困ってしまう。実際にそれくらいのものなのか、それとも自分がそれをどこかで見てから自分のものとしているのか、どちらなのかわからない。人間の思考で、自分のものだけというものは存在せず、わたしはどこかで読んだ誰かの思考やどこかで知った誰かの考え、その他言葉をトレースしているだけの人間なのではないだろうかという考えが消えないため、こんなことばかり考えてしまう。そもそも、わたしの考えってなんなんだろうか? 誰もわたしを救わない。とわたしはよく書くが、そもそもわたしがわたしを救おうとしないから、誰もわたしを救わないんじゃないだろうか。憂鬱が止まらないんじゃなくて止める気がないだけ。止めたいとも思っていないから止まらないだけ。いつになったら死ねるんだ? 本当に死ぬ気もないくせに、何度も書くのをやめたらどうなんでしょうか。
早く死んでしまいたいかもしれない。やっぱり。長生きに意味はない。特にわたしの人生において。20年やそこらで何がわかるんだといった話だが、やっぱりわたしの人生において長く生きることは延命処置ではなくてただ惰性なんじゃないだろうか。生きていたところでそこに価値を感じられない。好きなものを追っている時間は楽しいけど、そこに生産性はないし、私自身はなにも生み出していない。ただ追っているだけ。享受するだけの存在に何の勝ちがあるんだろうか? フォアグラを作るため生かされている鴨みたいな。液状でカロリーがとてもある「エサ」を飲み込んで得られるものって何? その鴨が生きている意味があるのって、死んだあとにフォアグラが得られるからでしょう。
なら、わたしは? わたしは死後にも価値があるの?
価値がないと思うことで生きることに消極的である免罪符を手に入れられた気になるのもやめたらどうなんでしょうか。早く死にたい。本当に生きていることに価値が見いだせない。誰かに肯定されたいのに、誰かに無条件に肯定されるのをわたしは受け入れられない。わたしのことを知らないくせにわたしについて語るなよ、と思ってしまう。だから誰もわたしに触れなくなる。本当になんで生きているんだろう? どうしてこんな生き方しかできなくなったんだろう? 多角的な視点をもつ人間でありたいと考えて、気づいたらこんな風に自分の生き方に固執する人間になってしまった。一番一方的に物事を見ているのはわたしなんじゃないか?
13:39
自殺願望が消えない。早く死んでしまいたい。私に生きている意味がないから全て終えてしまいたい。私を止めるものが何もない。生きている意味ってどこからわかるの? 本当にそれを欲しがっているの? わからない。何もわからない。早くすべて終えたい。終えてしまいたい気持ちだけがずっとある。あと20年生きていればすべてどうでもよくなると言われたけど、それって本当なのか? わたしが生きていることの意味ってどこにもないんじゃないか? だって私自身がそれを見つけることができていないから。全て終えてしまって早く楽になりたいと考え続けているけど、終えることってイコール楽になることとつながるのだろうか。何もわかっていないのにわかったふりして生きているのをやめたい。何もわかってないじゃん。何かがわかったような顔をして何もわかっていないのに、それから見ないふりをし続けている。そんな人生。ずっとそれだ。物心がついてから10~15年くらいか? そこまでの間、私の人生に意味なんてあったんだろうか。わたしがこうして生きていることを誰も肯定してくれないし、誰もわたしを見てくれている感覚がない。でも私が欲しいのは、わたしを肯定してくれて私だけを見てくれる機械で、そんなものは存在しないので、考えたところでどうしようもないものである。それも分かりきっている。けれど求めるのをやめられない。私の中でずっと渇望しているのがそれだからだ。わたしを抱きしめてくれて、私だけを見てくれて、わたしだけを愛してくれる「もの」。ずっとそれが欲しい。それそのものじゃないから、わたしは今まで得てきた代えがたい(のかもしれない)ものを、そうではないとしている。わたしにとってはそれでなければ意味がないから、価値がないから、わたしが得ているものを意味があるとしていない。
私を誰かに欲しがってほしいと思い続けている。そうでないと生きていけないと思っている。本当にそうなのか? わたしってそうではなければ本当に価値がないんだろうか。他者から品評されたときのわたしの値段が欲しい。その値札を置いてくれないとわたしはわたしの価値を肯定できない。なのにだれも置かない。分別のあるひとたちだからだ。わたしが欲しがっているものは、デリカシーのない誰かなら置けるもので、わたしはデリカシーのない誰かから置かれたものを肯定できない。
前に友人に、「AIみたいだね」と言われたことがある。多分、打てば響くように喋っていたからじゃないだろうか。その子にとって、AIほど気軽にアクセスはできずとも喋ってみたらそれなりの返答が返ってくるものとしてわたしを扱うかもしれない。それ自体は別にいい。じゃあ、わたしにとってのAIは? わたしが求めているなにかや、打てば響くような会話は、わたしは誰とできるの? こういうことを考えていて、と話したときに「考えたことなかった!」とか「わたしはあなたほどものを考えていない」と言われるときの私の気持ちは? わたしはこうしてしか生きてきていないから、わたし以外のすべての人も同じようにものを考えて生きていると思っているのに、わたしが今まで出会ってきた殆どの人がわたしほどものを考えていない。わたしが欲しがっている「他者の思考」を提供してくれるけど、わたしがもっと欲しがっている、「わたしよりもものを考えている思考」を提供してくれはしない。わたしがここまで考えられているならお前たちもそれくらい考えていろよ。勝手に、わたしを搾取されているような気分になる。そんなことはないのに。私自身を勝手に消費されているような気分になる。それ以上でもそれ以下でもないのに。誰もわたしなんて消費していなくて、誰もわたしを見ていないのに。わたしが自ら提供しているだけなのに。メサイアコンプレックスこじらせるとここまでくるのか? いい加減にしろよ。
23:37
落ち着いてきたのかも。今日はこれ以上考えてもしょうがないから寝ます。おやすみなさい。最近はなんか物考えすぎかも。