姉のことが大好きだった。同時に激しく憎んでもいた。ピエモンテはひどく田舎で娯楽に乏しい町だ。姉の美しさは彼女を身ひとつでローマへ旅立たせるにはじゅうぶんだった。
どうして自分をこんなごみ溜めのようなところに置いて行ったのか。薄汚い年寄りと可愛げのない子供たち、そしてぶどう畑しかないここに。薄情だと思った。「いっしょに行こう」ではなく「ごめんね」とたった一言だけで自分のもとを去って行った姉のことが許せなかった。
姉がいなくなってからも女は何度も絶望した。見知らぬ男の子供を孕んだと手紙で知ったとき、産まれた子供が男の子だと知ったとき、そして姉が呆気なく死んだとき。何もかもが姉にふさわしくないと思った。さらに姉が産んだ子を引き取るはめになったとき、世界そのものが終わった気がした。残念なことに女の感情をよそに今日も世界は知らん顔で続いている。気が遠くなるほどに。
あの日から女の生活はぶどうの世話のみならず、子供の世話まで加わった。
「……名前は?」
「パヴィア」
「かっこ悪い名前だね。親の顔が見てみたいよ!」
女はパヴィアの顔を見ることもせず、にべもなくそう言い放った。本当は名前なんてどうでもよかった。たとえジョニーとかアンドリューとかそういうありきたりな名前でもどうでもよかった。すてきなお名前ね、あなたのお母さんのことはよく知っているわ、私の自慢の姉だったの――どうしてそんなふうに美しい言葉を紡げないのだろう。口から見苦しくこぼれ落ちるのは、すでに腐りきったものばかりだ。
「かっこ悪くないもん! ママがつけてくれた名前だもん……! かっこ悪くないもん……」
パヴィアはそこらにいる子供と同じように抵抗を見せた。泣くという感情論を使って。さめざめと女々しく泣く子供だった。泣き方まで姉にそっくりだった。
女がパヴィアに手をあげたのはそのときがはじめてだった。黒々と濡れた瞳のなかに姉の清らかな魂が丸ごと宿っている気がした。彼の瞳はおそろしいほどに美しかった。
◆◇◆◇
パヴィアを引き取ってからというものの、女は目に見えてアルコールとたばこの量が増えていった。その量に比例するように折檻は日に日に強さを増していった。最近では子供の泣き声がうるさいと近隣住人からの苦情がやかましい。
女は薄々感じていた。このままではこの子を殺してしまう。女はパヴィアを自宅の地下室に閉じこめることにした。虐待だと疑われてもよかった。パヴィアを殺さないためにはこうするしかなかった。
「そこにいれば安全なの……。少なくとも私に殺されずにすむ」
最初こそつんざくように泣きわめく声が聞こえたが、次第に大人しくなっていった。知らぬ顔をすればいいのに、女は非情さを保っていられるほど器用ではなかった。ときどき安否確認のために耳を澄ませば、楽しげな笑い声やひそひそ声が聞こえた。ピーター、アンドレイ、マレフィセント、トニカ、レオン……見知らぬ誰かの名前をうわごとのように呟いている。パヴィアはもうとっくにおかしくなっているのかもしれない。それでもいいと思った。自己嫌悪や常識がなければ人生はつらくないのだから。
精神科医から精神の安定と過去と向き合うために日記をつけるようにと言われ、もう十年が経つ。私はいずれパヴィアに殺されるのだろう。たぶんこの日記が最後のような気がする。だからちゃんと記しておかなければ。
今までほんとうにごめんなさい、パヴィア。あなたとはじめて会ったとき、「とてもすてきな名前ね」と言えなかったこと、何よりあなたを愛してあげられなかったこと。
あなたはあまりにも姉さんに似すぎている……。
◆◇◆◇
19XX年X月X日ピエモンテ州XXXXの一軒家にて女性の変死体が見つかった。強烈な腐敗臭がすると近隣住民からの通報で発覚した。また、この女性が暮らしていた自宅の地下室からは人が生活していたような痕跡があり、現在地元警察が調査中である――。