安部公房『箱男』を読んだ。
世の中には安部公房のファンという人がいっぱいいて、見るものと見られるものがどうのとか、本物と偽物がどうのとか、現代社会をどうとか、いろんな批評やレビューや解説があると思いますが、この文章はそういうものではなく、もっとこう極めてどうでもいい話です。
たぶん高校生のとき以来の再読で、安部公房を読んだのはそのときが初めてだったと思う。高校生の僕がなぜ箱男を手に取ったのかはよく覚えていないけど、本屋の棚を「あ」から見ていくとだいたい芥川龍之介とか安部公房とかが目に入るので、そこでタイトルに惹かれたんじゃないかと思う。たぶん。
初めて読んだときはそれはそれはビックリしたもので、小説ってこんな途中に写真とか入れていいんだ。とか、なに?誰がなに?主人公誰?とか思いながら読んだし、読み終わって「この本なに?」と思ったと思う。たぶん。でもその後わりとすぐに『砂の女』を読んだ気がするので、「この本なに?」と思いながらもなんか気に入ったんだと思う。そんで今回20年以上ぶりに読んでみて、やっぱり「この本なに?」とは思った。
全体的にわからないのである。
部分的にすごくわかるところがたくさんあって、「わかるな〜、安部っちの言うことわかるわ〜」と思いながら読んでいると、すぐわからなくなる。さっきまでわかってたのに!と思って戻ってみると、どこまでわかってたのかわからなくなる。「あ、ここはわかる」と思っていると、いつの間にかわからなくなっている。
わかる/わからないとおもしろい/おもしろくないは関係ないので、わからないけどおもしろいというのは全然あることなんだけど、そういう場合の問題はなにがおもしろいのか説明できないところだと思う。小説でも映画でも、これのここがおもしろくないというのは簡単に言えるけど、ここがおもしろいというのを言葉にするのは案外難しい。わかるしおもしろいものについてでさえ難しいのに、わからなくておもしろいもののなにがおもしろいかというのはかなり難しい。
わからないというのはストレスなので、わかりたいという内圧が発生するんだけど、わからないものはわからないので、結局わからないまま読み終わる。しばらくすると鼻から空気が抜けて「この本なに?」となる。
わからなかったのでまた最初のページをめくる。