さっき友達とSNSでやりとりしてて思ったんだけど、僕は映画評論家とかによるいわゆる"映画評"みたいなやつが全体的に好きじゃないような気がしてきた。はじめはこの人の映画評が好きじゃないとか、誰々の映画評が苦手とか、そういう好き嫌いの話かと思ったんだけど、たぶん違くて、全部好きじゃない気がする。
映画の話をするときっておおまかに2つの軸があると思っていて、ひとつは「一般的⇔個人的」の軸。これは客観的⇔主観的と言っても、批評的⇔感想的と言ってもいいと思う。もちろん一般的/客観的/批評的なことが言えないと評論家みたいなことはできないわけだけど、僕はどっちかというと個人的で主観的で感想的なものが聞きたい。全然正しくなくていいから、その人が思った、感じたことが聞きたい。つまり、そもそも映画批評とか評論とかよりも、感想を聞くほうが好きっぽい。
そんでもう一個が周辺情報の多寡について。評論家はだいたいこの監督は過去にどういう作品を作っていてとか、どういう経歴でとか、どういうスタッフでとか、そういうことを言ってくる。これが本当にどうでもいい。作品そのものの話をしてくれよと思っちゃう。具体的に言うと『シン・仮面ライダー』のときに「緑川ルリ子は綾波レイだ」みたいなことを言う人たちね。「庵野監督だからあれは綾波だ」で理解したつもりになってるバカは、『シン・仮面ライダー』に向き合ってないんだよ。まあ向き合わなくてもいいと思いますが。
なんの話だったかというと、映画評論なんていらないとかそういうことでは全然なくて、それはそれでやればいいと思うが、僕はその作品が映画史においてどういう役割だとか現代の映画界においてどういう位置だとかそんなことよりも、その人が個人的にどう感じたかを聞くほうが好きだしおもしろいと思うということ。
じゃあ僕が好きな感想っていうのはどういうのかというと、めちゃくちゃうまいと思うのが伊集院光さんで、映画評はラジオで何回かしか聞いたことがないけど、NHKの100分de名著で小説の感想を語っているのを何十回も見ていていつも感心する。彼はお題の書物を自分の仕事なり経験なり性格なりに結びつけて「僕の場合は過去にこういうことがあったんだけどそれはこの本でいうと……」と自分に引き付けてその本のことを語る。それがあまりにもわかりやすくて、理解の角度が増える。ものごとを「理解する」というのは「単純化する」ということでもあって、な〜るほどこういうことねと思った瞬間、ソレは形を失い、一握りを残してこぼれ落ちているのだと思う。残った一握りの中には偏見や誤解もあるのだろう。でも、それで全然いいと思う。そのほうがむしろいいと思う。最も個人的なことこそ、最も普遍的なことなのではないかと僕は思うのです。