悪人正機とは

「悪人正機」とは、阿弥陀仏が自己の不完全さを認識するすべての人を無条件に救済する、浄土真宗の教えだ(ちなみに僕自身は仏教徒だが浄土真宗ではない)。

宗教的な観点をなるべく控えて、哲学的な観点でこの考え方に触れてみよう。

問題サマリ: 現実の人間は完璧ではなく、誰もが過ちを犯す。多くの宗教や哲学的教えでは、道徳的な完璧さを目指すことが強調されるが、実際にはこれは現実的ではない。人間の本質的な弱さや不完全さをどのように扱うかが問題となる。

解決サマリ: 「悪人正機」の教えは、人間の不完全性を受け入れ、自己の弱さに真摯に向き合うことによって、真の救済や内面的な平和を見出す方法を提供する。これにより、個人は自己認識を深め、阿弥陀仏の無条件の慈悲に頼ることで、自分自身の限界を乗り越え、精神的な成長と和解を達成することができる

ということだけど、悪人の定義が現代のそれとは異なるので注意。もう少し具体的に整理してみよう。

悪人の定義

仏教においては「悪人」という言葉は、自己の不完全さを受け入れる人を指す比喩として使われることがある。浄土真宗における「悪人正機」は、文字通りの「悪い人」ではなく、自己の限界や過ちを自覚し、阿弥陀仏の救済に依存する必要性を認識する人を意味している。これは、道徳的な完璧さを追求するのではなく、人間としての謙虚さと自己認識の重要性を示している。

善人どうしは喧嘩する

この記事の子ども達の喧嘩の話が面白い。彼らは善人どうしであり自分は悪くないとお互いに言い合い、喧嘩をしている。そこに先生の言葉が。

そこで先生は、「自分は良くて相手だけが悪いと、本当に言い切れるのか、いっぺん胸に手を当ててよく考えてみろ。そして思いつくことがあったら職員室へ来い」と言って、しばらく時間を与えたそうです。

<中略>

「考えてみたら、自分にもまちがっていた所がありました」と一人が言う。

するともう一人も、「自分にも悪いところがありました」と言い、二人で頭を下げたのです。

<中略>

先生は言いました。

「けんかが終わって良かったな。さっきまでお前たちは『自分は善人だ、自分はまちがっていない』と言ってけんかをしていた。

ところが今、自分も悪いやつだ、愚かな人間だということに気づかされたら、けんかをやめて二人で先生の前へ頭を下げにやってきた。

善人が二人そろうとけんかする。悪人が二人そろうと仲良く頭を下げる。これ、不思議だと思わんか。

「はい、不思議です」・・・。

片鱗をつかめる記事だ。自己を冷静に振り返ることが「悪人」にはできるという話だ。

善悪の主観的な評価

このPodcast(18:38あたり)では、人間の行動に対する主観的な善悪の評価が議論されている。

具体的な事例として、スポーツ観戦後のスタジアムでのゴミの扱いが取り上げられている。一般的に、観客はゴミを持ち帰るかゴミ箱に捨てるという行動を取るが、これが清掃スタッフの仕事を奪うことになると考える人もいる。彼らはゴミを放置することが清掃スタッフの雇用を維持するために望ましいと考える。このように、人々は自分にとって正しいと思われる選択をするが、それが客観的に正しいとは限らない。

善人とされる人々は、自分の行動が正しいと信じ、それに疑問を持たない。しかし、自身を悪人と見なす人々は、自分の過去の行動が誤りであったことを認め、それを反省する。これらの人々は自分の行動を吟味し、間違いを認める能力を持つ。

したがって、善悪の評価は、主観的な視点と客観的(実際は間主観的だが)な視点の間で逆転する可能性がある。主観的に正しいと思われる行動も、客観的に見ると必ずしも正しくないかもしれない。逆に、自己を批判的に見ることができる悪人は、より高い救済の価値を持つ可能性がある。これは、自己の行動を客観的に評価し、必要に応じて修正する能力を示しているためだ。

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「悪人正機」の教えは、人間の不完全性を受け入れ、精神的な成長への道を提供する。仏教における「悪人」は道徳的完璧さを追求するのではなく、自己認識の重要性を示す。善悪の主観的な評価は、客観的な視点との間で逆転し得ることを示し、自己批判的な態度が真の救済への道を開くことを示している。

SNS時代に、忘れてしまっている考え方なのかもしれない。

@j5ik2o
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