今日は人間の認識について深く掘り下げる。
現象学的態度
目の前に存在するリンゴを見て、それが「赤くてつやつやしたリンゴ」として認識される。これは自然的な態度である。
しかし、現象学的態度はこれとは逆だ。それは、「赤くてつやつやしたリンゴ」という認識から、「目の前にリンゴがある」という確信に至るプロセスである。これは優劣の問題ではない。
この考え方を採用すると、自己の外側に存在する「客観なるもの」がすべて消去されることになる。外的「客観」と内的「主観」の一致を確かめる必要がなくなり、内的な知覚像から「客観」の確信に至る過程を探求できる。
認識の限界
人間の五感の外側がどうなっているかは、我々にはわからない。カントはリンゴの「物自体」にアクセスできないと言った。ニーチェはそれを「カオス」とも表現した。内なる認識システムが物自体やカオスをリンゴとして認識することが、現象学的態度である。
客観認識の問題
客観的にわかるはずなのになぜわかりあえないのかという、客観認識についての疑問がある。現象学的態度では、我々の主観から多様な世界像が構成される。先ほども言ったように主観ー客観の一致はないと考えられる。実際、確かめるのは難しい。世の中は人それぞれだといって、相対主義・懐疑論に偏ることがあるが、現象学的態度はそうではない。
確信スキーマ
人間が持つ認識、実際は確信のスキーマは次の3種類しかない。
個的確信: 主観的。個人が作り出した確信や信念。共有されない。例えば、幽霊を見た経験や思い込み、幻聴など。
共同的確信: 間主観的。複数人に共有されるが、その範囲には限界がある。例えば、二人の絶対的合意、船乗りの言い伝え、民族の神話など。
普遍的確信: 間主観的。共同的確信のうち、特定の条件を持ち、誰もが共有しうるもの。例えば、数学、自然科学、基礎論理学など。
ここに「客観的」という視点はない。代わりにフッサールの間主観性という言葉がある。現象学は相対主義・懐疑論だと誤解されることがあるが、間主観性がわかっていないためだ。
間主観性と世界の実在
世界が主観の外に実在する保証はどこにもない。しかし、我々は世界の実在を確信している。なぜか。自分の身体を動かすことができるという事実から、「私の身体」が存在すると確信する。自分以外の同じような身体を持った他人に感情移入することで、他人の自我、つまり他我の存在を確信する。フッサールはこの他我の存在に基づく確信を間主観性と呼んだ。自我にとっての世界と、他我にとっての世界は同じものだと確信させる。これによって客観世界が生まれる。
実はいわゆる「客観的世界」の確信は、それを信じる人にとって実在するものと同じである。フッサールの間主観性こそが世界の存在を基礎づける考え方となっている。
次回の記事では、共通了解をどのように得ることができるかについて議論する予定である。