二項対立的思考が自分の中でホットだったのでそれと脱構築について書いてみる。
脱構築は、ジャック・デリダによって提唱された難解な概念。僕もわかっているわけではないので、これは思考を垂れ流すような記事なる。
二項対立は人間の思考の条件
新しい可能性を見出すとき、しばしば二項対立的思考はしがらみになる。しがらみを超えて、新しい解釈を広げるには脱構築によって第三の概念が必要だろう。
そもそも人間はなぜ二項対立的な思考になるのか。自己/他者、西洋/東洋、男性/女性など。ちょっと前に意味の固定に関係するとつぶやいた。
『ゲンロン15』の「エッセイ 脱構築のトリセツ」によると、やはり意味のある思考には二項対立を使うことになる、とあった。
二項対立の諸要素へと展開する必要があるのは、私たちの思考のあらゆる枠組みが二項対立を介して構成されているからである。私たちの思考は有限であり、それを言葉で順序立てて説明できるのは一連の二項対立を介してでしかない。脱構築が働きかけるのはまさにもろもろの二項対立にたいしてである。脱構築が脱構築たりうるのは、二項対立という私たちの思考の条件にたいしてであり、それが「二項対立の脱構築」として生ずるのである。
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非常に大事なことが書かれている。僕がいったように「二項対立が悪」と考えるのは、人間が持つ「思考の条件」に目を向けていないことになる。
脱構築しなければならないのは、既存の二項対立のもとで問題が引き起こされているからである。しかし、二項対立であればなんでも悪だということではない。先ほど述べたように、二項対立は私たちの思考の条件をなしている。脱構築が扱う二項対立は、たとえば、プラスとマイナス、N極とS極、といったたぐいの水平的な二項対立ではない。脱構築は、二項対立をもてあそぶ記号の知的ゲームではない。
『現代思想入門』に真を食うような説明があった。神や仏の実相も「○○に非ず」によって表現される。カントの「物自体」もそう。それには決して到達できないが意味づけを試みてきたけど、捉え損ねている部分はあると思う。
思考は二項対立を操作しますが、結局、物事は絶対的には捉えきれないので、つねに我々はそれ以外にない結論には達することができず、空回りのように議論を続けることになります。このとき、意味づけ=解釈が多様でありうるために、我々はつねに捉えられないXの周りをめぐり続けている、という描像が浮上してきます。
つまり、第五章で説明した否定神学的Xですね。人間の思考は二項対立をいろいろ使って、否定神学的Xの周りをめぐり、それを捉え損ない続けているという、コミュニケーションの実態が浮かんできます。デリダはそのように、つねに誤解されズレ続けるものとしてコミュニケーションを捉えていました。
脱構築 vs 弁証法の止揚(アウフヘーベン)
『ゲンロン15』の「エッセイ 脱構築のトリセツ」によると、脱構築はこの二項の間の力関係や秩序を転覆することにあると書かれている。
脱構築の眼が向けられるのは、問題となる二項のあいだに、なんらかの力関係、つまり垂直的な階層秩序があるときである。言ってしまえば、既存の硬直化した支配関係や上下関係を転覆するためにこそ、脱構築はなされなければならない。その点で、脱構築はつねになんらかの政治的な効果を伴った介入として生ずるのだということを銘記しなければならない。脱構築には、現状に批判的な視点で切り込んでゆく問題意識が不可欠なのである。
弁証法の止揚(アウフヘーベン)とは何が違うのか、というのが気になる。どちらも二項対立を乗り越えようとするものだというのは分かる。僕の中での理解は以下。
止揚は構築の進展
弁証法における「止揚」は、対立する概念(テーゼとアンチテーゼ)を統合し、それらを超える新しい段階(シンテーゼ)へと進化させるプロセス。このプロセスでは、対立する要素が否定されるだけでなく、その有用な部分が保存・統合されて、より高度な理解へと進展する。したがって、止揚は構築の進展と見なされ、より複雑で洗練された理論や体系へと発展する。
脱構築は対立の解体
脱構築は、既存のテキストや概念の固定された意味や二元的な対立を解体する。構築を進めるのではなく、構築されたものの根底にある前提や矛盾を明らかにし、それに挑戦することだ。脱構築は対立を解体し、転覆させることで新しい視点や理解を生み出すが、それは必ずしも新たな統合や体系へと進むわけではない。
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こう整理すると、似ているようでベクトル的には真逆の方向性ではないかとも思えてくる。おそらく止揚は答えを求めるが、脱構築は二項対立を根底から揺さぶり、問いを立て直すような思考が必要なんではないかと思う。