翌朝、駅には誰もいなかった。
昨日の終電で見たはずの影も、黒いコートも、跡形もなく消えていた。
ただ、ベンチの上に置かれたノートだけが、昨日の冷たさをほんのり残している。
僕はページをめくる。
白紙のままだ。
それでも、昨日の彼女の声が、ページの隅からささやくように聞こえた気がした。
「書かなきゃ、忘れちゃうよ」
忘れる。
僕はすぐに思い出せなかった。
彼女がなぜ駅にいたのか、なぜ僕を呼んだのか。
でも、胸の奥に、痛みとも違う、ぽっかり空いた感覚が残っている。
次の夜、また駅に向かう。
線路沿いの街灯の下で、風がページをめくる音がする。
誰もいないはずのベンチに、昨日と同じ冷たさがある。
触れると、ページの隅に、かすかな文字が現れる。
「まだ、来てくれる?」
僕は答えられない。
ただ、ノートを抱えて夜風に立ち尽くす。
時間が止まったみたいに、ホームの灯りだけが、揺れていた。