🐦100分de名著で、『ねじまき鳥クロニクル』が取り上げられた
沼野充義氏による、100分de名著 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』が2025年4月に放映されたので、わたくしの『ねじまき鳥クロニクル』読書経験を振り返ったエッセイを記録します。
同月には、「地震のあとで」という「神の子どもたちはみな踊る」の2次創作ドラマも別途放映されていたけれども、やはり1次作品の方が噛み応えがありました。『ねじまき鳥クロニクル』批評は、前世紀においてはジェイ・ルービン「ハルキ・ムラカミと言葉の音楽」が最高峰かと思っておりましたが、日本人にとっては今回の方が染み込みやすいと感じました。
(ジェイ・ルービン氏は、実際に話している所を早稲田で見て、軽くてびっくりしました。冗談がうまくて明るい、と言えるのだろうけれども)
🐦沼野氏のテキストの目次
第1回 日常のすぐ隣にある闇
第2回 「大切な存在の喪失」
第3回 根源的な「悪」と対峙する
第4回 「閉じない小説」の謎
『妻の失踪から動き出した物語を辿りながら、そこに残された謎の意味を考えます』ということが示されている。目次には、闇・喪失・悪・謎という名詞が入っている。大体の人が闇・悪を混同するのではないか?というところを沼野氏は明確に別に扱っており、本もそうなっている。
『ねじまき鳥クロニクル』は、第1部 泥棒かささぎ編、第2部 予言する鳥編、第3部 鳥刺し男編、の3部構成で、100分で…では第3部を2回に分けて4部構成としていた。部編タイトルに鳥が用いられいてかつクラシック音楽であることから、鳥が象徴するものから話しを起こしていたのは面白く、鳥は、飛躍・天・空のほか「予言(の鳥)」まで象徴することを示していた。
🐦ノモンハンと、満州撤退戦を混同していた
構成や部編タイトルの意味は、読んだ当時の20歳代では全く考えていなかった。当時は、就職や転職の際に読んだことから主人公がモラトリアムかつ浪人でありそれを脱しようとする話というところと、妻の二面性に大変共感したような気がする半面、読書としては浅かった。特に、時空の呼び交わしを起こして物語にドライブがかかる手紙の部分である「ノモンハン事件」と「満州・奉天終戦」の2つの時空を混同していたように思う。また、「闇の中にほっておいた妊娠」から、バットへ、暴力との対決へ、という"つながり"も余り響いていなかった。
改めて本の目次を見ると、沼野氏が「主人公の1人称の語りと(それ以外の)様々な語りの組み合わせでスケールの大きさの出している」とする4つの手紙の部分(ナツメグ、シナモンはとりあえず置いておく)と、わたしが混同した部分、および「妊娠」の部分は、
第1部
第4章 高い塔と深い井戸、あるいはノモンハン【ノモンハン】を遠く離れて
第13章 間宮中尉の長い話【手紙】
第2部
第7章 妊娠についての回想と対話、苦痛についての実験的考察【妊娠】
第11章 痛みとしての空腹感、クミコの長い手紙【手紙】、予言する鳥
第18章 クレタ島からの便り【手紙】、世界の縁から落ちてしまったもの、良いニュースは小さな声で語られる
第3部
第1章 笠原メイの視点【手紙】
第10章 動物園襲撃(あるいは要領の悪い虐殺)【満州】
となっている。最初と真ん中と最後という感じである。
この、ドライブする構造の部分と、ヒエロファニーに当たるであろう「空箱(心臓が入った、あるいは希望が入った)」「野球のバット」「濃厚な花の匂い(クミコのオーデコロンのような、仏教的な涅槃の様な)」「猫」「象」が重層的にあり、もちろん登場人物のスピリチュアルな造形があって、井戸からの壁抜けが数珠繋ぎになる。
🐦「善悪同根由来」についての、わたしにとっての新発見
当時は、なんで壁抜けなんていう発想が可能なのかがふしぎで、主にツインピークスにインスピレーションを受けたのかと考えていたけれども、今回の解説では、様々な書籍を引用していたことが印象に残った。
ミルチャ・エリアーデ「聖なる空間と時間」(1968年)
W.B.イェーツ「In dreams begin the responsibilities」(1914年)
デルモア・シュワルツ「夢の中で責任がはじまる」(1937年)
加えてオーウェルの「象を撃つ」もあると思う。
元々、欧米の書籍由来の空間や責任の考え方が『ねじまき鳥クロニクル』の基盤としてあったのだなぁ、と納得した。特に、「聖なる場所と負を引き取る場所とが同時に同一のトーテムを挟んでおこりうる」(松岡正剛@千夜千冊 ミルチャ・エリアーデ「聖なる空間と時間」)という、善・悪、聖・負がある空間が同一である、というのが、ツインピークス以前に欧米で既出だったのは驚いた。
そして、ベースとなる書籍たちが現れた頃合いである。善悪同根のビジョンを具体化して大衆に見せたのは1990年代のツインピークスのレッド・ルームだとしても、負をも引き取る場所としての「夢」や「ヒエロファニーの顕現」が、2つの世界大戦を挟んで流行っていたとは驚いた。
わたくしがかねてより考えていたこととして、2つの世界大戦で日本には大きなタイムラグがあり、シュールレアリズム/50’sアメリカ文化が真に日本に到来したのは1960年代/1980年代なのではないか、ということである。
戦争でブレイクスルーと言える飛躍をした宗教論、精神分析論、ジャーナルが、アメリカのポップカルチャーに進出している例として、映画では「地獄の黙示録」などが、ドラマでは「ツインピークス」が、現時点から振り返ると橋頭保になっていると思う。『ねじまき鳥クロニクル』は、「ツインピークス」に似たビジョンを追っただけではなくて、それらのブレイクスルーをベースにして、理解して紡がれた物語であるという面でも、意義深いのではないかと思える。
🐦手紙(主人公の交代)による時空の呼び交わし、とは
語りの組み合わせで描かれる、闘争して抗う必要がある『暴力』の1つに、赤坂ナツメグの父が傍観するバットがある。
このバットは、ジョージ・オーウェルの「象を撃つ」に接続し、蹂躙されるインドシナにも接続していく、と考えている。「象を撃つ」にある「抑圧者となった白人が奪うのは、自分自身の自由である」と同じく、探索する側が暴力を実行せざるを得ない状況をバットは象徴している。接続した上で、「象を撃つ」の先を描くのならば、井戸の中で「そんなに悪い死に方ではない」(太字)と主人公を消滅させるのは1つのエンディングとしていけるような気もする。
欧米的な帝国主義についてのジャーナルでありその価値がノーベル賞に定まっているジョージ・オーウェルととても良く似た内容が加わることで、世界文学としての重しがよく効いていることは納得した。「闘争と救済」の「闘争」の方の重しである。
「闘争と救済」というテーマ
のもう片方である「救済」は、主に時空を呼び交わして届く“手紙”が担っているようである。手紙を通して、クミコ、加納クレタ、笠原メイにも「救済」が施されたことが伝えられる。クミコの手紙の最後が、「病院に兄を殺しに出かけなくてはなりません」だったとしても。
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こうして並べてみると、主人公が男性だからかもだけど、「救済」されるべき手紙の並行世界×4のうち3人が女性っていうのはやっぱりなんだか偏りがあるよな、と、改めて思いもする。それだけ「暴力」が向けられていて昇華するべき「呪い」が女性の闇の奥にわだかまっているのを、プリンストン大学@米国から感じたということだろう。
4回の放映を通じて、NHKが朗読の部分に当てた00年代風味の「チル」の音楽演出は、やはり、わたくしが『ねじまき鳥クロニクル』から受け取る内容とは異なる。が00年代からこれまで珍重されてきた安楽死的な「チル」ではこれから先は本当に死にかねないのではないか、という危機感をもって、沼野氏のコメントのわたしなりの要約を書いておく。
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『ねじまき鳥クロニクル』は、歴史の奥の暗闇を引きずり出し人を操作するのが「悪」。「悪」の本質は形を見定めることができないものではないか、と示している。
かつ、
強大なシステムの暴力性に苦しむ小さな声を、ちゃんと拾って聞いていくことが大事なんだという姿勢の小説。
人々の心の中には、「悪」の以前に、正しくないものに対する怒りや不満はある。それ自体は正しいものかも知れない。
しかし、それを引き出して来て人を操作することは、暴力を正当化することになりかねない。
この小説では想像力の世界は現実世界に影響している。壁抜けをした世界での闘争が現実につながってくる、ということを主人公が実践している。問題に参与していく。
"本当にハッピーエンドになるかは分からないけれども"希望を残している。喪失を経て「悪」と対決して、「喪失したもの」を取り戻そうとする物語であり、良い予感を残して終わる“開いた小説”。世界文学視点で見てもスケールの大きな小説であり、決して古びていない。
「『ねじまき鳥クロニクル』は、今の世界のことのような気がしてくる。村上春樹がこの小説を書いた当時、初めの頃には湾岸戦争があり、終わりの頃には阪神淡路大震災、オウムサリン事件があった。血生臭い事件や大惨事が小説に影を投げかけていると思う。今世界を見たらどうかというと、戦争はウクライナでもガザでも続いており、今この世界って、ねじまき鳥が世界中で鳴いているんしゃないかという感じさえする」
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