
ファンによる、お誕生日を記念した応援広告が札幌駅にも掲示されていた。JRの改札内だったのでさすがに見にはいけないなあと思っていたら通勤ルートの友人がわざわざ撮ってみせてくれた。うれしい。
ダイイングメッセージのような更新から3日が経ちました。いかがお過ごしでしょうか。
推しの誕生日配信を見た。
ダンスが得意だったりバイオリンが弾けたり、さまざまなひとのライブにゲスト出演することも少なくないセラフが、マイク一本――歌のみでステージに立つというシンプルなパフォーマンスだった。
これまでの言動から、バンドライブのような構成が好きなように見えていたから、これが本人が事前に言っていた「自分がやってみたいことをやろうと思った」結果なのだろうなと思った。
自分で見返す用にセットリストも貼っておこう。
セラフ3Dミニライブ 季節外れの牡牛座流星群
01.Aurora/BUMP OF CHICKEN
02.銀河録/はるまきごはん
03.エアレンデル/Roca feat.IA
04.プラネテス/キタニタツヤ
05.*ハロー、プラネット/sasakure.UK
06.Circle/Mrs.GREEN APPLE
07.東京流星群/SUPER BEAVER
キービジュアルにも使われている青い光と輝く星々の静かで優しいオープニングはセラフらしいなあとぼんやりつぶやいたのち、よく知るバンドのあのイントロが流れ始めて、その時点で胸がいっぱいになってしまった。
一体いつ聴かせてもらえるんだろう、と思っていたセラフのBUMPがそこにあった。
AuroraはわたしがZeppSapporoのAブロックで藤くんを見た日に演っていた曲で、だからこそ印象がすごく強くて、その曲をセラフが、誕生日ライブの一曲目に披露してくれた。
5月11日から12日にかけては、ちょうど太陽フレアの影響だとかで日本中でオーロラが観測された。セットリストなんてもうずいぶん前から決まっているはずだから、これは偶然なのだろう。天に味方されるってこういうときに使うのかもしれない。
曲が終わって開口一番の発言が「やっとBUMPが歌えました!」で、かわいさとうれしさで笑ってしまった。わたしはもう人生の半分以上をBUMPと過ごしてきているので、好きな人がわたしの好きなものを大切に扱ってくれているのを見るとうれしくなる。
BUMPの歌は全部「わたしのための歌だ」と思ってしまうところがあるけれど、セラフのライブを見て「あなたのための歌でもあるのね…」という気持ちになった。それぞれにとってのBUMP OF CHICKENがある。
この日のセラフはやや緊張も見られたけれど、終始楽しそうだった。たとえそれが3DCGの世界だとしても、画面越しに見ているものだとしても、にこにことした楽しそうな笑顔は本当なんだろうなと漠然と思った。セラフがよい誕生日を過ごせているのならよかった。
最後の一曲、東京流星群のアウトロでは「愛してるぜお前ら!」なんてこれまでのセラフからは考えられないような言葉も聞けて、貴重な瞬間に立ち会えている…と感慨深くもなった。
言葉をていねいに扱い、自分の気持ちひとつひとつをきちんと言語化しようと努めてくれる人なので、この衝動的な「愛してるぜ!」はとても純粋な、美しい輝きに満ちているように感じた。
そしてライブの直後に公開された歌ってみた。
世界の真ん中を歩くのカバーだ。
これは本人が初めてのカラオケ配信(厳密に言うと"自分のチャンネル"で初めて生歌を披露した時の配信)でも歌われていた曲らしく、こちらも念願叶ってということらしかった。
当時の配信はアーカイブでちらっと見た程度で、曲の記憶もほとんどない。ほぼ初めて聴くような感じだ。
ライブのあと、そのまま動画のプレミア公開に自動転送されて、そのまま見た。
セラフが、薄暗い路地裏から、明るい場所へと歩き出すMVだった。VOLTAのメンバーカラーの紙吹雪が舞う青空の下で大きく口を開けて笑うシーンが印象的だ。晴れやかな祝福を感じる。
そのまま2周くらいループ再生して、
サビの歌詞
「君と出会って 素直になって 心を知って僕は変わったよ」「昨日までの自分に大きく手を振って」
に対して、「もしかしてこの『君』ってわたしたちリスナーのことなのか」「こんな風に歌ってくれるなんて幸せだな」とじわじわと思い始めた。
じわじわと思い始めていることに気づいて、「うわ!騎馬戦!!」とも思った。
(騎馬戦の話は以前のブログを読んでください)
セラフの言う「君」や「あなた」に自分が含まれているという明確な自覚が表れている。
でもこれってセラフ側の心境には何も変わりはないはずで、つまりわたし側の気持ちの問題だ。わたしが、セラフの言葉や表現と向き合って、何かを受け取ろうとする覚悟ができつつある。そういうことだと思う。
それと同時に自分がセラフを応援しているという意識も持っているんだなと気づいた。
わたしが応援する→セラフがそれを力にしてさまざまな表現を見せてくれる→それに感謝してまた応援する
というループが確かにそこにある、と気づけた。
中島ヨシキが自分の誕生日に「生まれてきてよかった」と目の前で呟いたあの日、応援してきて本当によかったなと心から思ったりした。つまりこれも感情のやり取りが、わたしたちの肯定が彼に届いた!といううれしさだ。これも自分がヨシキを肯定している、という意識がないと発生しない。
(中島ヨシキに対して騎馬戦…!と思っていないのは、騎馬戦の定義が落ち着き始めたのがごく最近のことだからです)
もしかしてわたしの「推し」の定義ってこれなのか!?と衝撃を受けている。
相手が発したものを斜に構えたりせず、真正面から受け取って、そしてそれをまた相手に返したいと思う。感情のキャッチボールがしたい。心でグータッチがしたい。
わたしの拳を笑わないでいてくれる、きっと同じように作ってみせてくれる、そういう根拠のない信頼と、相手に同じことをされたら、わたしも胸を張って受け取りたいと思う意志。
これが「推し」なんだとしたらこれまでの推しが全て三次元の表現者なのにも納得が……いく……すごい……!
ここまでの思考にたどり着いたことがなかったのでここ数日は脳みそが喜んでいる気がする。すっきりした。
セラフの配信を見るようになってからもうすぐ一年が経つ。正面から向き合うのに随分時間がかかった。
もうやれるぞ。どっからでも来い。
身長186cmの人を上に乗せて騎馬戦は、ちょっと、大変だと思うけど。