夜は深海の底

Wakako Riverside
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 夜闇に沈んだ小さな町をまばらに照らす古びた街灯は、あたかも海の底を気まぐれに浮遊するクラゲのようである。

 ともすれば自然に飲み込まれてしまいそうな片田舎においても、夜は人間の意思の宿るところにのみ視覚情報が与えられる特別な時間だ。昼間はすべてが容赦なく白日に照らされ、無節操に視覚情報が入り乱れる。あの家、あの車、あの木、あの草。取るに足らない僅かなものだって、目に入れずにはいられない。

 しかし、夜は違う。今ここにいる一個人の意思でないとはいえ、人間がエンヤコラと街灯を立てたその下にしか光は当たらない。人間が照らそうとしたものだけが人間に認識される、それが夜という時間だ。

 つまり、闇は人間に自由を与えると言える。人間が灯りを発明、ないし発見したとき、人間はそれまで不自由だった時間帯を(捉えようによっては)昼よりも自由な時間帯、好きなところに太陽を設置できる時間帯へと変えたのだ。

 案外、皆が不自由を感じるところにこそ自分の意思を通せるチャンスが眠っているものなのかもしれない。

 洞窟を明々と照らす焚き火、手元にささやかな光をもたらすオイルランプ、ドラマティックな影を演出するガス灯………照明装置の不自由をも次々に乗り越えて、今や「人のいるところに灯りあり」と相成った。

 予備校から最寄り駅まで、できるだけ明かりの多い場所を選んで歩いていると、街灯、街路樹をライトアップする照明、信号、車のテールランプ、コンビニからダダ漏れの光など思い思いの箇所にスポットライトを当てる都会の夜は賑やかだと実感する。これもいい。

 電車に揺られ、海を過ぎ、山を越え、まだ故郷とは言えないが、あまりに生活の舞台からは離れ過ぎてしまった私の帰るべき町にやっと辿り着く。この町の夜景は初めに示した通り。賑やかだった頃の惰性で役目を果たしているような街灯は人間の手を離れたのだろうか、都会とはまた違う浮遊感を感じる。

 田舎は早寝だ。20時58分現在、明かりを灯す店などない。並んだ瓦屋根の民家たちはひっそりと今日を仕舞おうとしている。人っ子一人と出歩かない夜の町、そんななかにポツポツと置かれた街灯たちは何を思うのだろう。

 海水を潜り抜けてくるわずかな陽光をただその身に受け、光を反射させた白い球形の体を深い海の底で踊らせるクラゲ。「海月」と書いてクラゲと読ませる当て字はよくできたものだ。夜に太陽を求めて町に明かりを灯した昔の人々の思いで、今この町に明かりが灯っているはずだ。その思いこそ太陽ではないか。この町のクラゲたちは、昔日の思いを私たちに跳ね返しているのかもしれない。

 明かりの下は人が照らそうと思った場所。人が昼も夜も見たいと願った場所。そんな「意思」を私たちは見ているということになる。

 いそいそと床に就く準備を始める町が海の底なら、この町へ私を返してくれる電車は潜水艦だろうか。妄想に耽りながら大きな窓を見ると、腑抜けた顔の人間がいたので呆れて目を閉じた。いったい何を考えていたらこんな浅ましい表情になるのだろう。

 深い海の底、浮かぶ光に人の生あり。100万ドルなどと値打ちのつく宝石のような夜景も、地上に全く明かりがない山奥で見る満天の星も、確かに素晴らしい。しかし、このようなひっそりとした田舎町の夜の姿もまた、趣が感じられるというものだ。

 

@just_eye
とりとめもないですが良かったら見てやってください