予備校からの帰り道、薄暗くなった河川敷を一人歩く。
ふと思い出した光景があった。
舞台の上。客席をちょっと見下ろしている。川向こうはさながら2階席だ。高校演劇の世界に夢中だったあの頃の感覚。
それは、舞台上を歩いていた経験に重ねていたというよりは、今まで客席から見上げていた世界に入り込んだような感覚に近かった。あの作品のあの役に憑依して河川敷を歩いている……
かなり運が良く、高二の夏に全国大会を観劇する機会に恵まれた。(ここで『えー!演劇って大会があるのー!?』という声が入ることを予想。あるのです。)何か一つでも噛み合っていなかったら、全国レベルの舞台を肌で感じる三日間は生涯過ごしえなかっただろう。
それまで高校演劇に限っていえば、地元の地区大会・県大会までしか観たことがなかった。自分の学校で全国大会のDVDを観ましょうともならなかったし、私の中では県大会までの世界しかなかったのだ。
それが全国大会。静謐な空間に一つ、二つ、声が落ちる。光が世界を作る。全くの虚構の世界が、自分の座る客席とひとつなぎの空間で変容を遂げている。いとも簡単に心を掴まれ、何度も感情が溢れた。
同時に思った。
あんなのが演れたら楽しいだろうなあ!
東京から帰ってきた私は、秋の大会に向けて一つの脚本を書き上げた。しかし、舞台上でやってみたいことの半分も叶えられなかった。
フィクションは制約だらけである。虚構の世界において、吐いていい嘘は一つだけ。虚構の世界で不自然さを指摘する目は現実世界より数段厳しい。ドミノ倒しのように、そうなるしかない、というように物語を動かさねばならない。さらに演出上の制約も色々とあり、憧れを乗せていくと「これ〇〇高校の作品に似てるね!」なんてことを言われてしまう。「必要」に追われ「願望」になかなか手が届かない。そんなもどかしさを抱えながらの執筆だったが、胸を張って自分の作品と言えるようなものができたので成功と言っていいだろう。
ホリゾント幕に空の青を映して、川のせせらぎを音響で入れて、あとは役者が向こうに川があると信じる。それだけで、舞台は河川敷になる。向こうから謎の転校生がやってきたら、後ろから自分を呼ぶ声が聞こえたら、川に大きな桃が流れているのを見つけたら。その「嘘」が虚構の世界の始まりである。虚構の世界に生を受けた者は幕引きとともに姿を消すだろうか。否、その人物は観客の胸の中にいる。観劇後も記憶に残り続けるという陳腐な話ではない。その人物は幕が上がるとともに観客の胸から飛び出してきて、幕が降りるときその胸に戻ってくる。そうして彼の存在にようやく気づいた観客は以降の人生を彼を感じながら生きることになる。
現実の河川敷を歩いていても何もはじまろうとはしない。家に帰るため、妄想に幕を降ろしてさっさとここから退場するべきだ。ここは歩くための道であって、ドラマを起こす特別な舞台ではない。
必要に急き立てられてやりたいことのほとんどを叶えられない毎日であっても、結局叶わなかったとしても、胸を張ってこれが自分の軌跡だと言える日が来たら。
その日を呼ぶためと言い聞かせて、河川敷をあとにした。