絶え間なくひかる手綱から手を離したのがどちらだったのか、もう覚えているはずもないというのは願望、けれど憶えているのでしょう。思い出す気がないのだ。思い出したら、あとからずるずると表出する数々の切れ端が躰へ張り付いて、何気ない一言さえ不確かな意味を持ってしまう、私によって、私の放つ意味が歪められるような、温い恐怖ごとに嫌気がさしていた。崖からすべり落ちたのが私でも、仔犬でも、恋人でも、あの一瞬に静止した絶望のまたたきをきっと忘れていない。けれど運命に打ちのめされた悲しみの亡霊は私を抱きすくめる。怖くないよ、怖くないよ。慰めを背負いながら指を舐め障子にひとつ穴を空けた。細い繊維が咲くように解かれとたん自由が部屋を拭き荒らす。白い紙の円から覗く草花と空を見つめているここはどこにも届かない巨塔。自由の島、自由の躰と自由の夢。それらを欲しがる時期があったはず、それならはじめからひどく自由だったのかもしれない。青空は突き抜けていっそうしろっぽく物悲しい。世界が清潔にかなしみをおびるならわたしの閉塞ばかりちっぽけなものだ、手に入れた風花は腕の中で手綱に似てひかり、開け放した窓から逃がすころには世界は一面の宵闇になっていた。紺碧の宇宙に塗りこめられた茶室はひとつの惑星で、遠ざかる太陽を追っていま網膜を焼く。瞳を失った私は二重の闇に閉じられ、そこが初めて内側だと気付いた。こんなふうにならないと、躰へ潜れないのなら、やっぱり障子に穴を空けて正解だった。ああして一つ穴を空けておくだけで、息をしながら窒息することが出来るから。
ひとつしか穴のないのなら、そこからなかへ入ればたったひとりと同じことだ。だからあなたに祈ります。祈りは窒息の中でしかしてはいけないものだから。ひとつの穴にわたしはぴったり顔をはめこんでいる。息の吐く分だけ、茶室ははりつめる。あなたがのぞむ空をとべますように。とおい晴れた日の春風のにおいに鼻の頭に花びらをつけたあなたがひなたへ転がるそば、いちめんにやわらかい枯れ葉がつもっていて、あなたを優しく包みますように。つきぬけた蒼空にひとさじの桃色をにじませ、まるで宇宙のような夜明けのひかりをともに浴びた日のことなんかあなたはわすれて、そのうぶげのいっぽんいっぽんが吸収したひかりを確かにまとったまま、あどけない顔ですこし遅れた食事をまちわびてくれますように。いつか、いつの日か温かい寝床に縫い付けられる日が訪れたとき、あなたのみる夢が最後にのぼった階段のさき、あなたを受け入れる扉の奥のにおいを蘇らせますように。破裂、しない。祈りは窒息の中でおこなわれるべきあなたの彼方の呼吸。