顔に涙がかかったからあたしがぬぐってあげなくてはと思った。やわらかいベッドに腰をしずめながらあたしを覆うそのひとを見上げながら、不思議と全身の力は抜けていた。不思議がっているように映るだろうか。目尻の力が抜け、口元は薄く開き眉さえ骨格に沿ってなだらかに降りている感覚がした。彼の涙はわたしの瞼を滑り、しずかに目尻のくぼみへ流れ込んだ。重力に従いまっすぐに落下した雫は彼に軌跡をのこさず、この世の理すべてが彼の弱さを拒むように出来ているようだった。もうすぐ日暮れになる。かれの肩の向こうから滲んだ夕陽が窓枠に溶けていく。
上から見つめられるあたしは空を飛ぶ。空を飛ぶ。空を飛ぶ。真っ先によろめいた黒い烏の翼が視界を裂きふくらはぎ、ふとももから順にべりべりと皮膚が剥がれていく。ぱらぱらとめくれあがる。幾重にも幾重にも重なりあったそれらの内側に書き込まれた言葉の数々を私は知らずあたしはそう、あたしは本だったことを思い出す。ページが捲られるたびにすはだかを暴かれたあたしは記号の羅列を押し広げる。きっと生きていたのだ。生きていたからその言葉の数々を知らずにいることができたのだ。親指の凹凸が側面をこすりあげるたび内側には金属のような振動、悲鳴が響き合ってしかしあたしは熱と脂のなかに一冊として佇んでいるに過ぎなかった。その記号らがなにに響こうとあたしはそれを知らず、あたしに何を響かせようと誰もそれを知らないのだった。知らないままあたしは与えるのみで、褪せるのみで、繰り返し逆行をゆるすことができる唯一の立場にありながらみずからにそれが許されないことを悟った。だからとうめいな空を飛んでいる夢を見たのかしら、両翼と一本の尾びれを泳がせて、だたしく空を飛ぶなら、背中と腹の、どちらが上かしら。
それならあたしが泣いているとき傍に来てくれるのは一体何なのでしょうか。暗闇でしょうか。孤独でしょうか。孤独のふりをした幸福で、その幸福をみつけることができることこそ選ばれたひとなのだと声高に言うためのトロフィーでしょうか。そんなものに意味がないと言いながらそれを受け入れる覚悟をとっくにすませていた教師でしょうか。うつらうつら眠気が漂ってくるときにだけ恋人が歌うはなうたでしょうか。小さな子どもが自分のためにつくった紙粘土のコップでしょうか。いくつかの感情やそれを飼いならすための指先、意味に並べられた言葉の数々でしょうか。指が踊れば言葉も踊るでしょうか、ふれた数々に弄ばれながら酩酊のもとに得る羅列を記すたのしさでしょうか。ななめに下り落ちていくことを期待しながら目を瞑り体が宙に浮くのをまったけれど、今日のところはそんなにうまくいきませんでした。うまくいかなかったの。そのとき傍に来てくれるものはいったいなんなのでしょう。
みあげると春の海を彷彿とさせる灰色はいくつもをちらして靡いていた。海とくらべるとあなたはさらに珍しい髪の色だった。窓から差す陽に透けるたびに陰りが色濃く黒になり、全体がその色に染まっていくのだから。