4 19 2024
彫刻家の友達の勧めで村田沙耶香の「地球星人」を読んだ。
「コンビニ人間」の作者ということくらいしか知らないままに読み終えたが、ポップな包装紙になんともビターな味わい、知らない間にホラー小説に足を踏み入れてしまったかのような、独特のグロテスクさを覚えた。こんな小説を書いている方だったのかという二重の振動が走った作品。
内容を簡潔にまとめると、幼い頃から姉よりも粗雑な扱いを受けて育ち、人間の社会に対して1歩引いた目で眺めることを身につけてしまった笹本奈月という女性が主人公であり、「ポハピピンポボピア星」という地球の外にある惑星からの視点を持ち、現代日本で文明を築いている地球星人の中で生活をする自分の存在に疑いを抱き、地球星人を俯瞰しながら成長を遂げていく中で、最終的には長野の山奥で同じく地球星人として訓化されることができなかった男性二人と住み暮らしていくというストーリー。
細かな描写を省き、重要な出来事も伏せた粗筋なので、この文章だけでは読み手に伝わりづらいかもしれないが、ここはしずかなインターネットなので僕以外読まないだろという乱暴な可能性を前提としてとりあえず進めていく。
この作品における地球星人というのはある種の皮肉で、噛み砕いてしまえば、人が生きていく上で自身の中に浮かんだ疑問や感覚に蓋をして、社会化を最優先に考え世間体を何よりも重視し生活をする人間たちを指した名前である。作中では奈月をはじめ、従兄弟の由宇、偽装結婚相手の智臣の3人を除く全員が地球星人として描かれる。
地球星人である奈月と由宇以外の親族や、学校の同級生、塾の先生(一番やばい)は、世界に順応し、生殖と経済を担う工場の部品として疑いを持たずに生活を送ることに成功している。自身の抱く違和感に目を背けることができず、家族からも腫れ物を扱うかのように接される奈月は、世界から自分を守る手段として、魔法を自身にかけてゆく。
現実においても子供はある種の怪物のようなもので、学校や家族など集団の生活を送る中で、徐々に社会性を身に纏っていき、この本の中で呼ばれる工場の部品としての役割を担うようになっていくが、上手く自分を騙すことができなかった一部の子供たちは、社会と自分の中にある怪物としての感覚の歪みを無視することが出来ずに苦しんでしまう。
「地球星人」という作品そのものに限って綴れば、全体を通してドライな視点が続いていく中で、工場部品としての冷たさを持っているのは果たして主人公側の3人なんじゃないかと感じたりもした。
作中で奈月が感じる「皆ドラマの下手な演技をしているように見える」という世界の見え方には、僕自身にも幼い頃から大人として成長を迎えた今も感じる時がある。謂わば「上辺だけの言葉」で、世間体や社会的な帰属意識の中から借り出したような、魂が感じられないようなやりとりのことなのだと思う。「おまえの言葉じゃねーだろ」のような。「先生に教わった教科書的なやりとり」のような。大なり小なりの性格の悪い脳内ツッコミ。
そういった形式的なコミュニケーションが社会を潤滑に動かしていく技術の一つなのはわかるのだけれど、それを纏い続けているうちに生身の肌感覚を忘れていく、文化的な装いで生物的なスリルをマスキングしていくかのような、鈍くなってしまう側面もある。
奈月の姉や塾の先生は、典型的なマスキングに成功をした地球星人の例であり、自らに秘めた(地球星人としては)偏執的な欲求を世間の目から隠し、自分自身をも騙すことに成功している。現実世界においても自分の正当性を言葉で構築することで、自分を騙し正気を保つことが出来る。結果としてリアルと自己世界は乖離を続け、そこにある違和感を無視できなくなったりするが。
人間は言葉(文明)を獲得したおかげで現実の狂気から距離を置くことが出来るようになったわけだけど、引き換えとして失った生の実感の部分には如何に気が付けるのか。僕は文字を線の集合体として認識した時の、野生的スリリングな世界の視え方も好きだが、言葉を用いた上での人間的などうしようもなさをも、愛おしく感じてしまうからこそ、地球星人として自らの邪悪さに蓋をし続ける彼らにも、そこに馴染むことができない化物としての3人にもシンパシーを感じた。
ポハピピンポボピア星人としてでも地球星人としてでも、人間である以上は理性と野性の狭間にいる怪物を封じ込める檻としての宿命からは逃れられないのだと思う。