3月7日 やさしさの奥行きのはなし

伊藤はと
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大きな振り子時計がのどかに時を刻む。カウンターの内側では背の高いケトルがちんちんとお湯を歌わせていて、店主はスープの仕込みなのか、野菜を手際よく刻んでいる。心地よい音に満ちた店内にわたし以外の客はなく、午後の光がまったりと差し込む空間はまどろんでしまいそうに穏やかだ。

上品なカップの底に少し残って冷たくなったコーヒーを飲み干し、おかわりを注文するか悩みながら、わたしはインクの出が悪い万年筆のキャップを閉めた。この前インクを入れたばかりなのに、やっぱり洗浄しなくてはいけないだろうか。かばんを探って入れっぱなしのボールペンを抜き出し、手の気が向くままに意味のないらくがきをする。

作業はまるで進まないが、この時間がずっと続くのも悪くない。ぽーん、ぽーん、ぽーん、と時計がのんびり三時を知らせる。やっぱりおかわりを頼もう。ついでになにか甘いものを注文してもいいかもしれない。メニューを手に取り、きんかんのガトーショコラにするか、いちご大福にするかで真剣に悩む。

からんからん、と鈍くドアベルが鳴って、ついそちらに視線を向ける。入ってきたお嬢さんはくすんだローズピンクのコート全体にも、ふわりと下ろした髪の毛にも雪の花びらをくっつけていた。窓の外を見ると、明るいままの空からはらはらと雪が舞い落ちている。

お嬢さんは暖かい店内の空気に触れてようやく詰めた息を吐き、もたもたと体についた雪を払い落とした。店主が「お好きな席にどうぞ」と声をかけると、小さな声で「はい」と言って窓際の席に向かう。

わたしはなんとなく興味をひかれてお嬢さんの様子をメニューの陰からうかがった。ちょっと現実味がないくらい可憐なお嬢さんだ。服装も雰囲気もふわふわしていて、でもどこか清廉で、印象に残るたたずまいをしている。

「抹茶のティラミスと……ジンジャーチャイをお願いします」

声も細いのに芯があって解釈が合う。注文をとりおえた店主が去ると、視線に気づかれそうでわたしも慌てて店主に手を上げた。いちご大福とエチオピア。

書き物をしているふりをしながらちらちらお嬢さんのほうをうかがうと、彼女は飽きずに窓の外を舞う雪を眺めていた。確かに、春先の風花は幻想的で目を奪う光景だ。旅行者なのかもしれない、それにしては荷物が小さいが。

手元のらくがきはいよいよ意味をなくし、いちご大福と華やかな香りのコーヒーを運んできた店主の目からそそくさと両手で隠すはめになる。お嬢さんは抹茶のティラミスに大事そうにスプーンを入れ、口にしてとろけるように微笑んだ。わたしはもはやペンを持つ気も起きなかった。

コーヒーカップを手にしたままぼーっと見とれていると、お嬢さんが視線に気づいて目が合ってしまう。気まずい。慌てて目をそらし、いちご大福にかぶりつく。大粒のいちごはみずみずしく酸味が際立っていて、あんこの上品な甘さとよく合っている。

身を縮めてコーヒーをすすっていると、お嬢さんが「あの」と店主を呼び止めた。

「いちご大福って、いつまでありますか……?」

「来週くらいまでですね」

「そ、そうなんですね……」

お嬢さんの声はあきらかに気落ちしている。わたしはかじりかけのいちごの断面と見つめあった。

「このいちご大福は、市内の和菓子屋さんから仕入れているので」

店主が入り口近くのショップカードが並んだ棚から一枚拾い上げてお嬢さんに渡す。

「ご興味あればお立ち寄りください」

さらりとそれだけ言って、店主はカウンターに戻る。

「ありがとうございます!」

お嬢さんはぱあっと周りの空気まで華やぐほど弾んだ声をあげて、ショップカードを大事そうに手帳に挟んだ。わたしも安心して、残りのいちご大福を噛みしめる。帰りにわたしも和菓子屋さんのショップカードを探していこう。