Threadsの庭師、自分のためのメイドさん

伊藤はと
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9月下旬からThreadsに力を入れているので、そろそろ2ヶ月になる。

とりあえずTwitterにあげている明日の占いをThreadsにも載せる。気が向いたときに思想を開陳する。Threadsはかなり長文を書けるので、きちんと「考えを述べる」ことができる。

Blueskyも300字書けるので(Threadsはもっと書ける)Twitterの140字って全然なにも言えないんだなって実感する。だいたい140字制限が「ツールの特色」ではなく「無課金ユーザーへの制限」になってしまった時点でTwitterはおしまいだったのだ(Xの悪口)。

Twitterのおすすめ欄もそうだが、Threadsもおすすめタイムラインの調教が肝心だ。とにかく「読んでいて不快でない、興味のある投稿」にいいねを押しまくる。Threadsの空気感として、フォローしていない人へのいいねやコメントがかなり自由だ。わたしの占いにもよくコメントがつく。

おすすめ欄の調教は庭の手入れみたいなものだ。

庭は放っておくと荒れる。毎日たゆまず雑草をとり、剪定をし、虫がついていないかよく見て、常に手をかけ続けなければ「維持」ができない。

それは人体や部屋の中もそうで、生きるとは「マイナスをゼロにする」ことだ。

放っておくと荒れるし、腐るし、汚れるし、ダメになる。だから手をかける。手をかける中で、もっとこういう方向に持っていけないかと考え、行動する。その結果の変化がプラスになって見えることもあるだけで、本質は「マイナスをゼロにする」行動なのだ。

というわけで、Threadsに力を入れるのと同時に自分の生活の庭師でありたいとも思っている。掃除とか片付けはどうしてもうまくいかないけど、毎週ヘルパーさんがきてくれるので荒れ果てることはない。

庭師というのは平沢進「庭師KING」をきくと概念がつかめると思う。働け庭師休まずKING、おのれ自身の王であれと景王陽子も言った。


自分の中では続きの話だがどう見ても閑話休題。

Threadsで見つけた「はんな」さんは「ソロメイド」である。

メイドのお店に所属しているわけではないフリーランスのメイドさん、といえばいいのかな。

2000年代からのメイド喫茶文脈による「ロングスカートのクラシカルメイド」になりたいわけではない(めんどくさ・オタク)のだが、こういうメイドさんもいるのか、と思った。

ヴィクトリア朝において「メイド」とは「働く女性の最大多数」である。(『図説英国メイドの日常』村上リコ、河出書房、2011年)

彼女たちは地元を離れてお屋敷に勤め、紹介状さえあれば職場を変えることもできる。読み書きができれば日記を残すこともある。ときにはキッチンでさばいたうさぎの毛皮をためこみ、抱えて出奔することさえある。働きづめで時間の自由はなくても、その働きには(十分かはさておき)賃金が与えられた。

結婚するまで親元で暮らし、結婚してからも地元を離れず、家庭の中でだけ一生を閉じていく女性がほとんどだった時代を思えば、それは革命的な「独り立ち」である。

女性はずっと「独り立ち」を求めて戦ってきた。自由と自立がほしいのだ。

いまも十分に自由で自立しているとはいえない女性たちは、それでも多くの自由を勝ち取ってきた。自分の住まいを持ち、自分の仕事を持ち、自分の面倒だけをみることもあたりまえになった。

わたしには地元を離れてお屋敷に住み込んだヴィクトリア朝のメイドたちと、現代のひとりで生きる女性たちが重なって見える。

というか、モチーフとして「メイドさん」が好きだ。だから自分の目指す生き方の旗印にメイドさんを使いたい。

自分自身のメイドでありたいのだ。人生の庭師でありたいのと同じように。

人はみんな丁寧にお世話をされるべきだ。そして、気ぜわしい日常では自分の世話がおろそかになるのも事実だ。だから、「なめらかに動く機械のように」自分の世話ができるようになりたい。

メイドも「マイナスをゼロにし続ける」仕事だ。朝は寝乱れたベッドを整え、洗濯や繕い物をし、掃除をし、皿を洗い、暖炉を磨く。必要とされているから人が雇われる。しなくていい仕事はひとつもない。お屋敷だけではなく、自分の生活についてもそうだ。


というわけでTwitterとかでもメイド好きをガンガン出していくことにした。

とりあえずイラストをいろいろ描いてみる。いまは月刊誌の表紙のテイで12月分まで予約投稿している。月初めに出すなら待ち受けカレンダーとかも作りたい。

マツオヒロミさんが好きなので、ああいう感じで自分の絵を商品化というか、パッケージングして出すのがうまくなりたい。描いて出しじゃなくて。

あと絶対的に描く量がたりてないので、もっといっぱい描きたい!