人は何かひとつのことをする上で「やれる」「頑張れる」上限や総量が決まってるという。例えば、
・ひとつのスポーツなり趣味なりにめっちゃ打ち込んでた人が、なんらかの変化(就職とか引っ越しとか結婚)を機にまったくそれをやらなくなる
・逆にそれまで運動やってこなかった人が後年急にランニングに目覚めてマラソンに打ち込んだりする
こういうの。人には何かひとつのことに向けられるエネルギーに上限があるって何かで見聞きした。幻かもしれないけど多分あった。
わかる。そうかもって思う。世の中やりたいこと/やらなきゃいけないこと多すぎ問題の中で、「それだけじゃなくない?」「もう十分やったんじゃない?」「これもやってみたら面白くない?」みたいなサインを体が定期的にタイマーかけて出すようになってると思う。それを飽きとも言うし老いとも言うと思う。
そもそも一生のうちで心臓の鼓動の回数が決まってるとも言う(これも幻かも、幻感覚で何かを認識してることが多い)ので、まず人体が上限ありきのデザインになってる。めちゃすごの人体さん側が上限制を採用してるのだからこれはよっぽど合理的で権威のあるシステムなんだと思う。
百合が好きで7年ぶりくらいに百合を書いた。それまで溜め込まれてきただろうエネルギーを全投入してめっちゃ集中して書いた。確実に一生に使い切れる頑張りの総量を切り崩したと思うくらい書いた。Webで連載したものを本にして、それはもう大変な作業だった。家族のたくさんの理解やサークルメンバーの血の滲むような努力があった。色んな甲斐あって出来上がったものは納得のいくとてもいい仕上がりだった。
イベントが終わって思った。
は? 百合書き足りんが?
ということで好きなことには上限も頑張りの総量もないという話。死ぬまでやりましょう。