※ネタバレあり⚠️
今年は短編小説を100本読むぞ!!ドンドン!!!
素直で意外性のないオチが残念だったけど、娘が目覚める前までは風格を感じた。
痛そうだし怖いし気持ち悪い話だな〜と恐る恐る読んでいたら、なんか最終的には痛そうでもなく怖くもなく気持ち悪くもなくなっていた。
娘が魔性に目覚めることよりも、主人公が娘に行った行為の方がよっぽど怖いんだよな〜……。やっぱりそこにスリラー的な期待を寄せていたから、終盤は思いっきり肩透かしを食らったように感じてしまった。
さてパブリックドメインなので好きな文章をいくつか貼ります。
2ページ
其れはまだ人々が「愚」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。殿様や若旦那の長閑な顔が曇らぬように、御殿女中や華魁の笑いの種が盡きぬようにと、饒舌を売るお茶坊主だの幇間だのと云う職業が、立派に存在して行けた程、世間がのんびりして居た時分であった。女定九郎、女自雷也、女鳴神、―――当時の芝居でも草双紙でも、すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。誰も彼も挙って美しからんと努めた揚句は、天稟の体へ絵の具を注ぎ込む迄になった。芳烈な、或は絢爛な、線と色とが其の頃の人々の肌に躍った。
書き出し格好いい〜……
「「愚」と云う貴い徳」とか、「すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。」とか、言い過ぎ!って感じのフレーズがインパクト大。
「世間がのんびりして居た時分」と来て、平和な時代っぽいムードを漂わせてからの「すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。」という裏切り方で、今から語られる話の舞台が何やらクレイジーな時代だとわかる。ムード作りが巧み。
9ページ
春の夜は、上り下りの河船の櫓声に明け放れて、朝風を孕んで下る白帆の頂から薄らぎ初める霞の中に、中洲、箱崎、霊岸島の家々の甍がきらめく頃、清吉は漸く絵筆を擱いて、娘の背に刺り込まれた蜘蛛のかたちを眺めて居た。その刺青こそは彼の生命のすべてゞあった。その仕事をなし終えた後の彼の心は空虚であった。
最後、「高揚していた」とか「満たされていた」とかでなく、「空虚であった」というのが格好いい。文章の流れから次は当然こう来るだろう、という予想や期待を裏切られるのが私は好きなのかもしれない。
たとえば「満たされていた」だったら読者は普通に通り抜けていきそうなところを、「空虚であった」としているのが良くて、その違和感に一旦立ち止まってしまう。だって、長年の宿願だった仕事をようやくなし終えたときに出てくるのが「空虚」ってどういうこと?
その刺青こそは彼の生命のすべてゞあった。
と来て、
その仕事をなし終えた後の彼の心は空虚であった。
……ってさ〜、どんな気持ちなんだろうね、途方もないよ
10ページ
「苦しかろう。体を蜘蛛が抱きしめて居るのだから」
こう云われて娘は細く無意味な眼を開いた。其の瞳は夕月の光を増すように、だん 〳〵と輝いて男の顔に照った。
「親方、早く私に背の刺青を見せておくれ、お前さんの命を貰った代りに、私は嘸美しくなったろうねえ」
娘の言葉は夢のようであったが、しかし其の調子には何処か鋭い力がこもって居た。
「細く無意味な眼」、日本語としては微妙に違和感があるんだけど、その妙な表現がやっぱり引っかかってちょっと立ち止まってしまう。初めて聴く響きなんだけど突飛ではなく、それがどんな有様なのかなんとなく見えてくる。短い言葉を思いもよらない形で組み合わせて、読者に生々しい光景を彷彿させてくる感じは短詩みたいだなとも思った。
娘の言葉は夢のようであったが、しかし其の調子には何処か鋭い力がこもって居た。
「夢の中で述べられたよう」ではなく「夢のよう」。でもこの言い回しの字義通りに「娘の言葉」は「夢」そのものなのかといえば、もっと解釈にゆとりを持たせられる気もする。「娘の言葉は夢のようであった(後略)」という表現自体が、夢のように掴みどころがなくふわふわしているのが美しいと思う。
以上!
今年は昔の小説も現代小説もバランス良く読みたいので、現代小説でいい感じの短編があったらwaveboxやこのサイトのメッセージ機能等々で教えてもらえると嬉しい〜❣️🐉(※好意的な感想が出てくるとは限りません……)