大学院で学ぶこと

ロボ太
·

理工系の大学では、多くの学生が修士課程に進学します。よく教員が「大学院は勉強ではなく研究をするところ」と言うのを聞くと思います。それまでは教科書などがあり、すでにわかっていることを学び、身につけるのが教育でした。しかし、大学院では研究をします。研究とは、まだわかっていないことを調べることですから、正解は誰も(指導教員も!)知りません。さらに、同じ学科でもやることはバラバラで、実験をする人もいればフィールドワークに出る人もいれば理論計算をする人もいれば数値計算をする人もいます。それでも、修士論文を執筆し、発表に合格したら、同じ「修士号」の学位を取得します。みんなバラバラのことをやっているのに、同じ学位を得るのは変だとは思いませんか?もし「教育の質」「学位の質」を揃えたければ、全員に同じペーパーテストでも課して、何点以上を合格、とした方が簡単です。それでも、多くの大学で修士研究を通じて学位を授与するのは、研究を通じて学んで欲しいことがあるからです。以下では、一大学教員として、大学院で何を学ぶか、教員が何を学んで欲しいと思っているかについてつらつら書きます。

学科によっては卒業研究をするところもあるでしょうが、本格的な研究は大学院の修士課程から始まります。修士の学生は、研究室ミーティングでの論文紹介などを通じて論文の読み方を学ぶことになります。論文は教科書とは異なり、それだけ読んでも理解できるように書いてありません。研究とは、それまでに積み重ねられた研究に、新たな1ページを追加する行為ですから、その最新の1ページを理解するためには、過去にどのような研究が行われたかを調べる必要があります。従って、「論文を読む」という行為は、ほぼ「先行研究を調べる」という行為と同義になります。こうして、「研究とは積み重ねであり、自身の研究も過去の研究の上に結果を一つ積み上げる行為であり、かつ次の研究の礎になるものである」ということを理解することになります。

研究は、平たく言えば「世界で初めての結果」を得るための行為ですから、誰もやったことがないことを調べることになります。従って、事前にどのような結果が出るかはわかりません。一応指導教員が「こういう結果が出るだろう。こういう結果が出たら面白い」という指針を立てて研究をはじめますが、全く予想外の結果が出ることもしばしばです。この時、「どのような結果が出るかわかっている実験」がきちんとできなければ、「どのような結果が出るかわからない実験」を行った結果を評価することができません。当然ですが、いい加減な実験をしたら、いい加減な結果が出てきます。いい加減なことをすれば、新しい結果が出たのか、それとも実験方法が間違っているのか判断できません。学部生の頃、延々と「結果がわかっている実験」をさせられたのは、「結果がわからない実験」をできるようになるためです。

研究は、結果を得るだけではダメです。結果をまとめ、発表して初めて研究成果として認められます。そのため、研究内容の概要を書いたり、論文にしたり、発表スライドにまとめて、学内の発表会や学外の研究会や学会などで発表することになります。この際、書いた文章やスライドを指導教員に何度も直されることでしょう。現在はオンラインでやりとりをすることが多いですが、かつては指導教員が印刷した原稿に赤ペンでコメントを入れることから、コメントを入れることを「朱を入れる」と言います。個人的に、大学院でもっとも教育効果が高いのはこの「朱を入れられる」ことだと思います。概要やスライドに対して、全体の流れや研究背景の説明といった大きなところから、誤字脱字、引用の仕方、太字の使い方、ピリオドや空白を入れるか入れないかといった細かいところまで、指導教員は実にうるさく朱を入れてきます。これによって、しっかりした文章を書く、という訓練をすることになります。現役の研究者である大学教員が時間をかけて文章を添削するというのは(自分で言うのもなんですが)わりと贅沢なことです。是非活用してほしいと思います。

大学によるでしょうが、修士号の学位を認められるには、中間発表や最終発表など、複数回の発表を通じて審査をパスする必要があることが多いです。多くの場合、学内での発表だけでなく、指導教員のホームグラウンドである学会での発表や、近い分野の研究会、国際学会などでも発表することが推奨されるでしょう。こうして、同じ大学、学科の発表だけでなく、最先端の研究を肌で感じることになります。実際に学会に参加してみると、意外に「最先端の研究」がたいしたことがない、つまり自分の手に届くものであることがわかるでしょう。一方で、本当にすごい研究は、本当にすごいこともわかるでしょう(語彙力)。修士課程では、自身の研究を遂行するだけでなく、似た分野の他人の研究を聞くことも重要です。

修士課程で2年間、もし卒業研究も同じ研究室に所属していたなら3年間、ある分野について研究を進めることになります。すると、なんとなく「自分の分野」と呼べる分野ができ、その分野の専門用語が「聞いたことがある」状態になり、専門家の言うことが「なんとなくわかる」ようになるでしょう。その状態で、学科の修士論文発表会で他の研究室の発表を聞くと、まるでわからないことに驚くかもしれません。同じ学科ですら、隣の研究室のやっていることがまったくわからない、ということが起きます。しかし、自分と同じ年度に進学した同期が、その全くわからない単語を使って研究発表をしていることから、何年かかければわかるのであろうと推測できます。その分野が、研究室の数だけあります。ここで、学問の幅広さを感じることになります。

個人的に、修士論文研究を通じて最も身につけて欲しいのは情報の受け取り方です。修士論文研究を通じて、なんとなく「自分の分野」と呼べる分野ができると、その分野に関する報道がわりといい加減であることがわかるようになります。間違ってるとまでは言わないまでも、極端に単純化されすぎていたり、重要な情報がしばしば省略されていることに気づくでしょう。そうすると、自分の知らない分野においても、同様なことが起きているだろう、と推定することができます。すると、なにか自分が真偽を判定できない情報を目にした時、裏を取るようになります。裏を取れない時には、その情報の信頼度は「不明」とし、棚上げするようになるでしょう。こうして、世の中の情報を「信頼できる/できない」「正しい/正しくない」の二値ではなく、「どちらかというと信頼できる」とか「多分信頼できるが、まだ裏を取っていない」といった連続的な状態で分類できるようになります。

主に理工系の大学院、特に修士課程で何を通じて何を学んで欲しいかを、教員の立場から書いてみました。大学院は勉強ではなく研究をするところですが、学生さんはその研究を通じて多くのことを身に着けますし、身につけて欲しいと教員は思っています。そういう意味で、大学院は研究機関であると同時に教育機関なのです。いま大学院にいる学生さん、そして大学院へ進学しようとしている学生さんが、充実した研究生活ができるよう願っています。

@kaityo256
記事中に明示されていない場合、私の記事はCC-BY 4.0で、記事に含まれるソースコードはMITライセンスで公開します。 github.com/kaityo256