「研究者はなんのためにSNSをやっているのですか?」
僕は講義で毎回レポートを出している。レポートには感想欄があり、そこに書かれた学生の感想に次の講義で返事をする。感想欄には講義の感想だけでなく、大学生活一般に関する質問や愚痴、将来への不安などがあったりする。その中に冒頭の質問があった。研究者がSNSをする目的はわからないが、自分がなぜSNSをやっているのかをつらつら書いてみる。
一応僕は研究者の端くれということになっている。いま、SNSというとX(旧Twitter)を指すが多いだろうか。他の研究室ではInstagramを開設しているところもあるようだ。研究成果を紹介したり、研究室の活動を公開することで、優秀な学生に来てもらう、そもそも研究は面白いものだと思ってもらうなど、いろいろな目的はあるだろう。だが、僕がネットに何かを公開するようになったのは大学生の頃で、まだ研究者になる前のことだ。
僕が学生の頃、家庭に常時接続環境が整い始め、「ホームページ」を持つのが流行っていた(当時、ウェブサイトのことをまとめてホームページと呼ぶことが多かった)。僕も例に漏れず、ホームページを作った。目的は自作ソフトウェアの公開だったが、カウンターや掲示板がある、典型的なホームページだった。そこに「日記」も書いた。日記といっても、更新はせいぜい1ヶ月に1度程度だったが、訪問者が日記に対する感想を掲示板に書いたりしていた。
僕が大学院生になったころ、研究者の中で公開日記(ブログ)が流行った。著名な研究者の日記を集めたアンテナなども公開され、多くの人が見ていたと思う。それらを見ると、トップジャーナルにどんどん論文を通すような研究者が、裏で悩み、試行錯誤し、成果が出て喜び、後で勘違いだったとわかって落ち込み、しかしなんとか成果を出して、論文を書いているのだ、ということが透けて見えた。それらの「研究者の生の姿」を見ていると、なんか自分にも研究ができそうな気がしたものだ。
僕が公開日記をつけはじめたのは修士2年の頃だったと思う。こちらは原則として毎日更新した。日記を公開する目的は「毎日を『その日しなければならないこと』だけで終わらせない」ためだった。必ず『その日しなければならないこと』以外をする。使ったことのないツールを使う、知らない言語を触ってみる、何かを調べる、ゲームを作る、とにかく「やらなければならないこと」に何かプラスアルファをする、その記録を残すのが目的だったと思う。
しかし、多くのプロジェクトが走り、様々な締め切りに追われるなか、「プラスアルファ」どころか「しなければならないこと」すらままならなくなった。日々のタスクに追われ、自分の才能の無さを嘆く、典型的な大学院生のブログだったと思うが、なぜそこそこ読者がいた。ある時、主婦だという方から「多くのタスクに追われ、悲鳴をあげながらも一生懸命がんばっている姿に勇気をもらいます」というファンレターをいただいたこともある。
そんな中、だんだん公開日記の目的が変わっていったように思う。今日、僕が何かを考えた、それを自分以外の人が知っているということ、それが大事なんだと思うようになった。
日記を公開する意味がわからない、自己顕示欲が強いのではないか、そういうことを言われたこともあるが、日記を公開する動機は、自己顕示欲とはちょっと違う気がする。自分が何かを考えた、それが誰かの頭に入り込むことが大事なのであって、「僕が」それを考えたことを他人に記憶して欲しいわけではない。そういう意味で、自己顕示欲というよりは、ウィルスのような、自己複製欲に近いものなんだと思う。
時は流れ、研究者達はブログではなくXを使うようになった。研究の面白さを発信している人もいるし、この世の理不尽を糾弾する人もいる。眠い、ビール飲んだ、ご飯美味しいと日常をつぶやく人もいる。そんな中、僕は半ば惰性でXを続けている。僕が今日、こんなことを考えた、その思いがウィルスのように他の人に感染することを期待して。
そもそも、「SNSはウィルスである」という考えも、僕のオリジナルではなく、僕がどこかネットで見たことの境目が曖昧になり、いつしか自分の考えだと思うようになっていたのかもしれない。
この文章を読んだあなたも、10分後には「誰の記事だったか」を忘れることだろう。明日には「どこかネットで見かけた」くらいの認識になり、3日後には他人の考えだったか、自分の考えだったか、その境目が曖昧になるだろう。そしてポロッと「SNSをするのは、自分の考えたことがウィルスのように他の人に感染することを期待しているのだ」と言うかもしれない。