RAG vs 柔軟なクエリによる検索
は学びにおいてどちらが優れているのか、本当に回答は生成される必要があるのかを考えていた。回答が生成されたほうが嬉しいのは、問いかけにカスタマイズされた返しが続く対話っぽいUXが重要視されているからなのだろうか。振り返ると知識は比較的対話ベースで学んできた気がする。
ChatGPTが出て、チャットインターフェイスを通してコンピュータとの対話がかなり違和感無く出来るようになったと感じる。
一方その体験以前から有る、無機物との対話代表として読書が挙げられる。読書は著者との時空を超えた対話であるという言葉もあるほどだし、実体験としてもそれは感じるところである。特に専門書は読んでいくうちに自分の思考が拡張されていき、賢い人と会話をした後のような感覚がある。
では両者のうち、どちらがより人との対話UXに近いかと疑問が湧いたが、表題通り私は読書のほうが近いと感じた。
UIだけを見ると明らかにChatGPTのほうがインタラクティブだし、私の投げかけに合わせた文章を生成してくれるので、非論理的な感覚かもしれない。
どのあたりが読書のほうが対話UXとして優れているのだろうかと考えて3つほど案が出た。
信条がある
考えてもないことを言ってくる
対話のターンが連続的
信条(メンタルモデルの言ったほうが適切かも)の有無が1番大事そうに見える。
本の著者は対象読者と伝えたいメッセージを定めて、本を書いていると考えるのが自然であり、当然書き手の信条・思想も随所に反映される。読み手はその主張や垣間見れる人間性を読み進めながら感じることができる。
一方LLMは詰めると手のひら返しのように主張を撤回し、意見やアイデアを求めると中庸な回答が返ってくるなど、まるでプライドを感じない。
対話
向かい合って話すこと。相対して話すこと。二人の人がことばを交わすこと。
改めて広辞苑の対話の定義を見ると、話し相手を人と認識することが重要そうに書いてある。その意味では、言葉の裏にある、それを起こすにあたった基底の考えが見えて始めて、他者と認識するのかもしれない。
話をはじめに戻すと、検索は情報を探し出すのみで文章が書き換わる事がない点で、書き手の信条やメッセージ性が一貫している。なのでより対話らしいUXなのは検索であり、様々なコンテキストをプロンプトに含めてRAGをするよりも、一つの本について検索・主張のまとめ、引用ジャンプなどができた方が対話を通した学びっぽいのかもしれない。