無限廻廊

kakurega
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公開:2024/6/7

 古ぼけた大きな時計がある。それは埃を被っていて、硝子は煤けており、針はどこかに行ってしまい、もはや時計の体を成していない。それでも、振り子は律儀に揺れている。

 ボーン、ボーン、ボーン。

 この時計曰く、三時らしい。真夜中の三時だ。

 懐中時計を出そうとして、やめた。どうせ、もはや、時間などという概念は無効だ。この世界は、夜が支配してしまったのだから。

 吹き抜けの上、ドーム状のはめ殺しの窓。そこから、白い月と黒い月が浮かんでいるのが見える。月が観ている。月に観られている。否、それは錯覚でしかない。ふたつの月は、私のことなどお構いなしに空に浮かんでいるだけだ。それでも、視線を感じる。やはり観られている。月でなければ、一体何に?

 ──魚だ。魚が居る。

 それも無数の、夥しい数の魚だ。

 もちろん、それは剥製である。此処に生きた魚など、居るはずもないのだから。

 魚は宙を泳いでいる。優雅に。美しく。華麗に。

 魚が私を観ている。

 虚な眼で、私を観ている。

 私も魚を見つめた。

 刹那、世界は私と魚だけのものになる。

 ──海だ。海がある。

 海では、魚がぎこちなく泳いでいた。滑稽だ。見るに耐えない。醜悪極まりない。

 時の止まった魚たちは、きっとその時初めて自由になったのだ。時間という檻から脱して、永遠になったのだ。

 ボーン、ボーン、ボーン、ボーン。

 私は不自由だ。それを思い知らされた。

 魚の剥製に飾られたフロアを出る。

 一直線の廊下だ。

 消失点まで続いている。

 やはり、この廊下もまた、自由だ。

 私は、アール・デコ調の装飾が施された扉を選び、開ける。

 遠くから喧騒が聞こえる。

 がらんとしたコンクリートの部屋をずかずかと進み、窓へと向かえば、眼下に不夜城の如きサイネージが並んでいるのが見えた。人人は、大きな声で笑っている。彼らはきっと、目を逸らしているのだ。己が不自由であることが耐えられないから、笑って誤魔化している。現実からの逃避。絶え間なく。不断に。逃げ続けるのだ。走れ、走れ、追いつかれないように。

 肩を叩かれる。

 振り向けば、影が佇んでいた。

 影が私に笑いかける。

 私はそいつを睨みつけた。

 影の横を通り過ぎ、廊下に戻った。

 暫く歩いて、ぶよぶよとした半固体(半液体?)の扉らしきもの──つまり空間と空間とを区切り、通り抜けられるもの──を通過する。

 白い棺桶が並んでいた。

 棺桶の蓋は存在しないが如く透明で、中で眠る人人がよく見える。

 彼らは、私たちは、やはり不自由だ。

 感じる筈のない腐臭を感じて、吐き気が込み上げてきた。マスクを外し、そこらにぶちまける。吐瀉物は、パリパリ、と音を立てて凍りついた。

 行儀良く並んだ棺桶を順繰り順繰り眺める。

 その中に、私によく似た人が居た。

 この世界には、自分を含めて三人、ほぼ同じ顔貌をした存在が居るという。名前が個人を識別するための記号に過ぎないように、顔もまた記号に過ぎないのだ。そんなものに拘泥して何になると言うのか。

 棺桶の蓋をそっと撫でる。

 私によく似たそれが、笑った気がした。

 私も笑った。

 空調服のバッテリー残量を確認する。まだ半分はある。歩けばもう少し充電されるだろう。

 廊下の窓の外は、何もない。

 それは、砂漠だとか、草原だとか、密林だとか、そういう類の話ではない。本当に何もないのだ。虚無である。虚無のなかに、ぽつぽつと何かが浮かんでいるのが見える。スペースシャトルの残骸、木乃伊みたいな死骸、朽ちた人工衛星、パンとワイン。

 私は窓を開け、そのパンとワインをマジックハンドで掴む。そして窓をきっちり閉じる。

 マスクを外せば、廊下の埃っぽい空気が喉を刺激して、数回咳き込んだ。

 パン、それは主の肉体。

 ワイン、それは主の血。

 主とは一体誰のことを指しているのだろうか。私はそれを知らない。

 パンはいいだけ乾いていた。そりゃあそうだ。虚無に投げ出されれば、水分など消し飛ぶ。

 ワインボトルを傾け、空中にワインを出す。宙にふよふよと浮かんだワインを口に含む。

 赤ワインの芳醇な香り。

 窓の外に浮かぶガラクタを肴に、ワインを飲んだ。

 ぽかぽかとした体で、散歩を再開する。

 木製の扉に手をかける。

 どうやら鍵がかかっているらしい。先生から貰ったマスターキーで解錠する。

 目が眩む。

 煌煌と輝いている。

 ──星だ。星屑だ。

 目が慣れてくる。部屋を見渡すと、ショーケースの中に星屑が所狭しと並んでいる。それは小さな隕石であり、宙から齎された宝石である。太陽の無い今も、自ら発光して輝いている。ショーケースの蓋を開け、きっと誰かの宝物だったろうそれらを不躾に摘む。星屑はざらりと砂になった。

 宝石たちの中に、ビー玉みたいな個体を見つけた。慎重に持ち上げ、口に含む。

 ひんやりとしている。

 光の味がする。

 宝石は口の中でするすると溶け、跡形もなく消えた。

 全部壊してしまおうか。

 綺麗なものというのは、終わりがあるからこそ綺麗なのだ。だから、私の手で終わらせて、これらが真実綺麗だったことを証明したくなった。

 ショーケースに手をかけ、ひっくり返す。

 パキーン。

 ぱらぱら。

 ガシャン。

 星は砕け散り、輝きを失う。

 これで彼らも自由になった。

 一個だけ、どう頑張っても瑕ひとつ付かない星があった。きっと、これは最初から永遠なのだろう。そういうこともあるらしい。懐中電灯の代わりにすることにした。

 廊下に出ると、跫が聞こえた。

 脚のホルスターからナイフを取り出す。

「ああ、やっと会えた。おや、酒に酔っているね」

 なんてことはない、相棒だった。ナイフを仕舞う。

「ああ、たまたま外にワインが浮いていてね」

「そりゃあよかった。そうだ、さっき部屋でレーションを拾ったんだ。食うべ?」

「ご相伴に預かろうじゃないか」

 異国の言葉でカレー味と書かれている(らしい)パッケージを破り、棒状のレーションに齧り付く。

 スパイスの良い香りがする。すこしぴりりとした。丁度空腹が満たされた。

 私は先ほど手に入れた、割れない星屑を取り出す。

 相棒は目を細めた。

「良いものを拾ったねえ」

「だべ?」

「これで、はぐれずに済みそうだ」

 この廻廊──廻廊とは呼ばれているが、何かを囲っている風ではない──での遭難率は高い。それでも、こうして今もなお珍品が眠っているから、探索しにくる者は多い。

「そういえば、さっき影に遭遇したさ。何もなかったけどね」

「そりゃあおっかないな。この玉でえいやっとやれないものかね」

「ああ、この星で? できそうだな」

 その使い道は思いつかなかった。さすがは私の相棒である。

@kakurega
概ね書き散らし。考えるのって楽しいよね。