古ぼけた大きな時計がある。それは埃を被っていて、硝子は煤けており、針はどこかに行ってしまい、もはや時計の体を成していない。それでも、振り子は律儀に揺れている。
ボーン、ボーン、ボーン。
この時計曰く、三時らしい。真夜中の三時だ。
懐中時計を出そうとして、やめた。どうせ、もはや、時間などという概念は無効だ。この世界は、夜が支配してしまったのだから。
吹き抜けの上、ドーム状のはめ殺しの窓。そこから、白い月と黒い月が浮かんでいるのが見える。月が観ている。月に観られている。否、それは錯覚でしかない。ふたつの月は、私のことなどお構いなしに空に浮かんでいるだけだ。それでも、視線を感じる。やはり観られている。月でなければ、一体何に?
──魚だ。魚が居る。
それも無数の、夥しい数の魚だ。
もちろん、それは剥製である。此処に生きた魚など、居るはずもないのだから。
魚は宙を泳いでいる。優雅に。美しく。華麗に。
魚が私を観ている。
虚な眼で、私を観ている。
私も魚を見つめた。
刹那、世界は私と魚だけのものになる。
──海だ。海がある。
海では、魚がぎこちなく泳いでいた。滑稽だ。見るに耐えない。醜悪極まりない。
時の止まった魚たちは、きっとその時初めて自由になったのだ。時間という檻から脱して、永遠になったのだ。
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン。
私は不自由だ。それを思い知らされた。
魚の剥製に飾られたフロアを出る。
一直線の廊下だ。
消失点まで続いている。
やはり、この廊下もまた、自由だ。
私は、アール・デコ調の装飾が施された扉を選び、開ける。
遠くから喧騒が聞こえる。
がらんとしたコンクリートの部屋をずかずかと進み、窓へと向かえば、眼下に不夜城の如きサイネージが並んでいるのが見えた。人人は、大きな声で笑っている。彼らはきっと、目を逸らしているのだ。己が不自由であることが耐えられないから、笑って誤魔化している。現実からの逃避。絶え間なく。不断に。逃げ続けるのだ。走れ、走れ、追いつかれないように。
肩を叩かれる。
振り向けば、影が佇んでいた。
影が私に笑いかける。
私はそいつを睨みつけた。
影の横を通り過ぎ、廊下に戻った。
暫く歩いて、ぶよぶよとした半固体(半液体?)の扉らしきもの──つまり空間と空間とを区切り、通り抜けられるもの──を通過する。
白い棺桶が並んでいた。
棺桶の蓋は存在しないが如く透明で、中で眠る人人がよく見える。
彼らは、私たちは、やはり不自由だ。
感じる筈のない腐臭を感じて、吐き気が込み上げてきた。マスクを外し、そこらにぶちまける。吐瀉物は、パリパリ、と音を立てて凍りついた。
行儀良く並んだ棺桶を順繰り順繰り眺める。
その中に、私によく似た人が居た。
この世界には、自分を含めて三人、ほぼ同じ顔貌をした存在が居るという。名前が個人を識別するための記号に過ぎないように、顔もまた記号に過ぎないのだ。そんなものに拘泥して何になると言うのか。
棺桶の蓋をそっと撫でる。
私によく似たそれが、笑った気がした。
私も笑った。
空調服のバッテリー残量を確認する。まだ半分はある。歩けばもう少し充電されるだろう。
廊下の窓の外は、何もない。
それは、砂漠だとか、草原だとか、密林だとか、そういう類の話ではない。本当に何もないのだ。虚無である。虚無のなかに、ぽつぽつと何かが浮かんでいるのが見える。スペースシャトルの残骸、木乃伊みたいな死骸、朽ちた人工衛星、パンとワイン。
私は窓を開け、そのパンとワインをマジックハンドで掴む。そして窓をきっちり閉じる。
マスクを外せば、廊下の埃っぽい空気が喉を刺激して、数回咳き込んだ。
パン、それは主の肉体。
ワイン、それは主の血。
主とは一体誰のことを指しているのだろうか。私はそれを知らない。
パンはいいだけ乾いていた。そりゃあそうだ。虚無に投げ出されれば、水分など消し飛ぶ。
ワインボトルを傾け、空中にワインを出す。宙にふよふよと浮かんだワインを口に含む。
赤ワインの芳醇な香り。
窓の外に浮かぶガラクタを肴に、ワインを飲んだ。
ぽかぽかとした体で、散歩を再開する。
木製の扉に手をかける。
どうやら鍵がかかっているらしい。先生から貰ったマスターキーで解錠する。
目が眩む。
煌煌と輝いている。
──星だ。星屑だ。
目が慣れてくる。部屋を見渡すと、ショーケースの中に星屑が所狭しと並んでいる。それは小さな隕石であり、宙から齎された宝石である。太陽の無い今も、自ら発光して輝いている。ショーケースの蓋を開け、きっと誰かの宝物だったろうそれらを不躾に摘む。星屑はざらりと砂になった。
宝石たちの中に、ビー玉みたいな個体を見つけた。慎重に持ち上げ、口に含む。
ひんやりとしている。
光の味がする。
宝石は口の中でするすると溶け、跡形もなく消えた。
全部壊してしまおうか。
綺麗なものというのは、終わりがあるからこそ綺麗なのだ。だから、私の手で終わらせて、これらが真実綺麗だったことを証明したくなった。
ショーケースに手をかけ、ひっくり返す。
パキーン。
ぱらぱら。
ガシャン。
星は砕け散り、輝きを失う。
これで彼らも自由になった。
一個だけ、どう頑張っても瑕ひとつ付かない星があった。きっと、これは最初から永遠なのだろう。そういうこともあるらしい。懐中電灯の代わりにすることにした。
廊下に出ると、跫が聞こえた。
脚のホルスターからナイフを取り出す。
「ああ、やっと会えた。おや、酒に酔っているね」
なんてことはない、相棒だった。ナイフを仕舞う。
「ああ、たまたま外にワインが浮いていてね」
「そりゃあよかった。そうだ、さっき部屋でレーションを拾ったんだ。食うべ?」
「ご相伴に預かろうじゃないか」
異国の言葉でカレー味と書かれている(らしい)パッケージを破り、棒状のレーションに齧り付く。
スパイスの良い香りがする。すこしぴりりとした。丁度空腹が満たされた。
私は先ほど手に入れた、割れない星屑を取り出す。
相棒は目を細めた。
「良いものを拾ったねえ」
「だべ?」
「これで、はぐれずに済みそうだ」
この廻廊──廻廊とは呼ばれているが、何かを囲っている風ではない──での遭難率は高い。それでも、こうして今もなお珍品が眠っているから、探索しにくる者は多い。
「そういえば、さっき影に遭遇したさ。何もなかったけどね」
「そりゃあおっかないな。この玉でえいやっとやれないものかね」
「ああ、この星で? できそうだな」
その使い道は思いつかなかった。さすがは私の相棒である。