以下、M24からのドにわかによる、bluesky上で無駄にろくろ回しまくっているやつの雑感メモ(コピペしただけセルフまとめ)
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エース「もう諦めてくれや。信じてくれるのは嬉しいけど…」
寺家「ああ…」
エース「もう無理やろこんなやつ何個言うても」
寺家「ああ…そうかそうか…」
この構図好き。寺家側からすれば、何かと突っかかるエースこそが"分からず屋"なのに、寺家はエースから分からず屋のような扱いを受ける。大抵はここで寺家側が強くツッコミ入れる所だと思うが、寺家はやらない エースがどんなに分かってくれなくても、寺家はエースに伝えることを諦めない。引き下がりそうで引き下がらない 会話の切り出しは寺家でも、主導権… 『主体』はあくまでエースにあるから「もうええわ」とそのままエースが終了させる。面白いし、味がする。
バッテリィズの漫才で「もうええわ」は寺家が言うべきでは?という意見を見かける。一理ある。でもそれをやっちゃうと上記に述べた『寺家』の味わいが損なわれてしまう。なんでか寺家は最後までエースのことを諦めてない。寺家こそが、こんなやつに何を話してもキリ無いわ、やってられんわと見切りをつけて投げ出してもおかしくない所あるんだが、エースも寺家のことを「信じてくれる」と言っている。
漫才ネタ時空エースの「もう諦めてくれや。信じてくれるのは嬉しいけど…もう無理やろこんなやつ何言うても」ってセリフ、ほんと切ないよな。切ない。いいやつだから、寺家側が物を教えようとしてくることを「信じてくれる」からだと分かってる。でも興味ないことは全く頭に入ってこないし、これ以上その善意と信頼を裏切る形にさせないでくれっていう気持ち出てる。切ない(刺さる)
◆バッテリィズ【決勝ネタ】<ファーストラウンド> M-1グランプリ2024
・エース「考えすぎやッその人呼んでこい楽しませたるわ俺がぁ! なぁ!」
ここで寺家が小さく微笑むところも地味に良い。エースのまっすぐでイイ奴なところを漫才時空の寺家は快く思ってもいると感じられる。
しかしエースの良さが出ていようと事実を伝えなきゃいけないから、
寺家「…そらもう亡くなってるから無理や」
エース「そらすまん」
寺家「謝れるの偉いねえ! 謝れるの偉いねさっきから!」
謝るべきだと思った事は謝るエース。謝れることを褒める寺家。お互いに手を焼いている立場になっている意識がある漫才、やっぱ面白いし好きだなぁ(でもリアタイ時の自分がネタで一番盛り上がってたのは真空と熊猿覚醒だったと思う)
・エース「お餅焼いてるとき途中見て楽しいけど、それ以外途中楽しないよぉ!」 寺家「お前、お餅焼いてるとき楽しいんや」 エース「楽しいよお餅急にふっくらしてぇ!なぁ!」 寺家「あぁ、そうなんや…」 エースがお餅大好きなのも事実だし、エースが「お餅」って言うのも素だし、お餅大好きなエースを否定しない寺家、やっぱりいいな…。
・寺家のエース対応で「ああそうかそうか…」ってなる所、インズバでもよくある"それ"だった。バッテリィズの漫才は「究極の日常会話」…
寺家「あーわからへんか」
エース「何を言うたの今ぁ?」
寺家「ああそうか分からんか変えた方がいいか」
エース「そう変えて 訳わからん」
寺家「哲学者のソクラテスって人がおんねんけど」
エース「何テツガクシャって言うのは?」
寺家「……うん…(腰に手を当てて俯く)。ごめんごめん」
エース「わからんよ?」
仕事のやり方が全然わからなくて困ってるのに、上司から理不尽に怒鳴られたということで飛んだエース。一旦そのエースを受け入れる寺家。漫才が本当に実際の『人間味』によって生まれているというのが真実味を増すばかり。噛めば噛む程に味わいが増していく。
・寺家の「……うん……(腰に手を当てて俯く)」という言葉にならない声、ここも味わい深い。味わい深いと自分が感じる脳になっただけか。 エースが『哲学者』が分からないという、そうかお前にはそこから説明しなきゃいけないんだな……という呆れと優しさ、諦念。ここで寺家が「お前はそんなことも分からんのか!」とキレツッコミしないのが『寺家』って感じがする。
それでもエースが「アホやないかあ!!(大歓喜)(満面の笑み) だってメロンは果物だものぉ〜!!(※農林水産省の定義では野菜に分類される)」と、自分を下回るアホが見つかったぞと言わんばかりに大はしゃぎして暴走するエースに、逐一言葉を尽くすも嫌になってしまった感ある寺家。ぶたれた後のエースの、気の抜けた声、好。
・寺家に暴を振るわれてしまったエースの「フワァ…」みたいな声、あまりにも無垢すぎて。無の寺家が暴を振るのも自分からすると"怖さ"が勝ってしまって正直そこに関してだけはあんまり笑えないんだけども、 暴を振るった直後の寺家「人間に生まれてきた意味ないで」に対して、 エースは「生きるのに意味なんか要らんねん、もうええわ」と突っぱねてしまう事ができる。 寺家がエースに呆れながらも何かと物を教えようとする構図でも、何かあれば寺家は暴力を振るう行為が出来てしまう力を実は持ってても、決してエースの立場も弱くない事がラストで改めて分かって、安心できるって面ある気がする。(寺家もエースに振り回されるだけの弱者ではない)
暴力の是非は一旦ちょっと横に置くと。エースが「アホやないかあ!!(大歓喜)」って暴走するのを、寺家は強制ストップかけることができるって捉え方も可能ではある。寺家側も決してエースに振り回されるだけの弱い立場ではない、その証左には一応なってる…と思う…(ろくろを回す与太人間)
・寺家「これで偉人の言葉とか参考にせんへかったら人間に生まれた意味ないで」 エース「いやそれ生きるのに意味なんかいらんねん。もうええわ」
寺家が「もうええわ」を言わない。呆れて切り捨てない。事実の訂正とか修正はやるが、エースの人格に関わる"芯"の部分となる所は否定しない。保護者寺家。エースが自分の考えを貫いて終わる。対等。
"普通"なら寺家が「もうええわ」を言う側。それは本当にそう。
エースが分からず屋で、せっかく教えてあげているのに話をすんなりとは受け入れてくれず、なんなら物を知らない故の揚げ足取りだってしてくるのだから。漫才時空における寺家の立場で考えれば、まさにエースは「もうええわ」を言う相手にこれ以上なく相応しい。「お前に物を教えようとした俺が馬鹿だった、付き合いきれん、もうええわ」って感じになるのが大抵のオチだと思う。でも寺家は言わない。そこに、美学みたいなものを感じずにはいられない。本人的にどういう考えがあっても無くても、バッテリィズがM-1で披露した漫才で寺家が「もうええわ」を言わないことが私は本当に好きだ。
なんせ自分は『対等』という概念にこだわり持ち人間で、大好きだった「肉」のマシンガンズ(スグル&テリーマン)や、はぐれ悪魔コンビに関して『対等』をテーマに死ぬ程ろくろ回してきた実績()があるもんだから……バッテリィズの漫才がある種『対等』に感じられると気づいて。理想に近いというか、理想の1つになると気づいてからは、もう…それはもう…土壺に嵌るというか……(ろくろを回しながら)
対等。別にそんな、厳密にあらゆる事柄が同時にイコールである必要って無くて、それこそ「シーソー(遊具)」のように、パワーバランスとかが交互に上下を繰り返せるような関係性を『対等』と言ってもいいように思う。バッテリィズは今の所その印象に近い。
寺家側は『一筋縄ではいかないエースに振り回され続ける』立場になるし、
一方のエース側も『俺のこと騙そうとしてるやろ、舐めんなや! さっきからお前が何言ってるのか全然わからん!!!!!』って感じで、
振り回されている意識が滅茶苦茶ある。お笑いとしても理想的な "対等さ" がここにあると言っても過言じゃないかもしれない……最高だ……(ぐるぐる目)
物を知らないエースに教える立場なのに、寺家は決して強者的にはならない。自分の考え・思いつきをバシバシ強く主張するエースの強者的な振る舞いが続くかと思えば、エースがシュン…とする事もある。(積み立てNISAのネタに関しては完全にエース劣勢のパターンだったが)
・バッテリィズ。M24で一発優勝とは行かず準優勝したことでオードリーを連想する者達も多く、東京進出してしまうとキャラ消費されて漫才がウケなくなる"あるある"現象が危惧されているし、私もそれは脳裏に過ぎったけども、 相席で千鳥が「バッテリィズは人間味」だと言った言葉が象徴的で、バッテリィズは寺家曰く「究極の日常会話」でもある。
むしろ準優勝を経た今これから、見る者に『エース』と『寺家』の人間味が広まって、理解と愛着をそこそこ深めていけた方がいいんじゃないか?って気がする。錦鯉の優勝パターンで。(ただ錦鯉はSMAで、バッテは吉本だから、仕事を入れられる具合とか全然違ってくるが…)
バッテリィズの漫才は「人間味」で構成されているのだから、今よりもさらにエースと寺家の人間味が広く知られた方がいいと思うのも、私自身ちょこちょこと出演番組やラジオ聞いて、平場における人間味の部分をちょっとずつ知って面白がり始めて、結果的にMリアタイ時よりもバッテの漫才めちゃくちゃ味わって楽しめてるから、というのもあるっちゃある。
M準優勝したのもあって「オードリー」を連想されているけど、よしもと芸人だから同期もたくさんいれば既に活躍している仲いい芸人も結構いるし(直近のアメトが良い例)、同期じゃなくてもNYや千鳥を筆頭に寺家をイジりたがってる芸人が既に存在しているしで、たぶんオードリーとはM準優勝誤の状況・スタートラインの状態ってだいぶ違うのでは…
・バッテは準優勝して東京進出をすぐ決めたわけだから(寺家は辻からの言葉で覚悟を決め、エースは地元愛の為に大阪出るのを逡巡した話も"人間味"の良さがある) この1年はまさに多くの人に「より愛してもらえるようになる」為の期間になるんじゃないかな、と勝手に思う。初見のインパクトが大事っていうのも分かるけど、バッテリィズの漫才はフォーマット・フレーズ等の『新規性』で勝負するセンス系とは異なるだろうから、新鮮味を重視しすぎるのはちょっと違うかもしれない。
って考えると、M2019のミルクボーイはコテコテの『古典』なガワによって考えが固い人間まで安心・油断させた上で、フォーマットやフレーズといった中身の部分は結構な『新規性』があったと言えるか。 多くの人が知っているコーンフレークを題材にしながらも、まだ誰も手を付けられてなかった部分(たぶん)を突っついてく。話者は2人なのに、2人の間には「おかん」という第三者が挟まってるから、滅茶苦茶な記憶力でも「年齢的にボケてきてるから…」という言い訳も立てられる。実際にそんなことは口にはしなくても。 それにしても、ミルクボーイの優勝からもう「6年」も経ってる事実がまじで恐ろしい。小学生が卒業しちゃうよ…
バッテの漫才は『大人』が過去に置いてきたようなものをエースが迷いなく主張する、みたいな話があるのも納得する。 ガリレオ・ガリレイの名前を聞いて「ガリ」2つ入ってるからって「細そう過ぎる」は、言わば『1個目』のツッコミと呼べそうな物だけど、エースの人間味のおかげでキャラと抜群に合っている。そういう事を言いそうな奴だというイメージを最初から見る者に共有できているから違和感も無い。
昨今のネタバレ禁忌扱いムードが苛烈化しているネットもそうだけど、お笑い界の中でも賞レースはとりわけ「初見」の衝撃が大事だと強く言われがちなもんだから、私はバッテリィズに『初見』を超えて優勝してほしいとすら思ってしまう。 ギミック重視系の作品とか、初見のビックリが肝心な作品も確かにこの世にはあると思うけど、バッテリィズって別にそういうのではない印象。エースも寺家も、コンビがこの1年でいい感じに『愛され芸人』になれたら行けるんじゃないかって思うんだよなあ(願望)
◆証言者バラエティ アンタウォッチマン!テレビ朝日【2月11日(火)放送】 ・茶道のネタ。エースに茶道を薦める寺家。
エース「2時間もあったら漫画1冊読むってそれは」
寺家「……(逡巡して)もうちょい読めるやろ。え?」
寺家が瞬間的に考え事し、やっぱりエースの言ってる事はおかしいぞと確信をもって、パッとエースをまっすぐ見据える所。地味ながら好き。(まぁ漫画(単行本)1冊読もうとすると私も2時間かかることもそんな珍しくないからそこは自分はエース側の人間だけども…) あとエースと寺家が正式プロフィールの数値程の身長差が無いように見える件に関しては、やっぱお互いに相手を物理的に見下ろすことも見上げる形にもならないのは、バッテリィズの漫才の形に相応しいんじゃないかなと。
>エース「嫌やって2時間もかけて水分補給…」目線が下。
>エース「なんで工夫して苦味迎えにいかなあかんねん」目線まっすぐ。
落ち着きのないエースは常に顔を動かしてるのは確かにそうだけど、例えば「嫌やって」という時には感情が下り坂だから目線も下向き、強い意思で自己主張する場面では寺家をまっすぐ見据えている。感情変化に合わせた動きもしているから、単に挙動不審ってだけで終わらせてしまうのもちょっとエースに悪い気がしなくもない。(落ち着きがないのは事実)(でも自分は他者を観察・認識できない為エースの挙動はMリアタイ時何も気にしてなかった)
・教えるという行為は、人間を自動的に上の立場にさせる。寺家側は、物を知らないエースの為に "教えてあげる" 立場としてスタートしている。しかしエースは、寺家側の教え・意見に対してとことん反発する。自分を曲げない。寺家は『なんだこの分からず屋』と思いながらも、話を続ける。 なんで? いや本当になんでだろうな(そういうネタだからという答えは不要です)。やっぱり漫才時空の寺家は、エースの保護者的な意識が強いのか。無知なエースが放っておけない。だからエースは『余計なお節介すんな この分からず屋』って感じでムキにもなる。力関係がスタート時点からみるみる変わって終わる。完全に対等とは言わないが、対等に近い。
対等というか、シーソーゲームになってると言った方が近いのかなぁ。
漫才のつかみでも寺家はエースの『アホ』エピソードを話すし、物を教えるという時点で精神的にも優位に立っている。それが、エースに物を教えようと話し始めていく内に、エースは「なんで工夫して苦味迎えにいかなあかんねん」とか「そんなもん俺に持たすなぁ!!」とか抵抗・反論していく。無茶苦茶なことばかりを言う訳でもなく、時々見る者をハッとさせられる事も言う。エースにとっての理屈もあり、正論めいた事も言える。エースは最後まで自分の考えを貫き通すして、寺家に屈しない。最後エースは寺家の相手はもうやめると言わんばかりに「もうええわ」で〆。
・寺家「世界遺産に自分の親を連れて行ってあげたら・茶道習って親にお茶点てられるようになれば、親孝行になるで」 エース「生きてるだけでええねん。もうええわ」
寺家がもうええわを言う側じゃないの、エースが生きてるだけでいいって感情の正論を言って終わるんだから、そこで寺家が「もうええわ」と呆れのテンプレ締め言葉を言ってしまったらエースを突き放す事になってしまうからやっぱりダメです。(積立NISAネタみたいな、最初からエース劣勢パターンはともかく)
寺家がエースを「ときどきハッとさせられたりする。ピュアがゆえに、それがバカにしてた人に刺さったりすることがある」と。 自分が元気に生きている事が一番の親孝行になると主張するエースに対して、寺家側が「もうええわ」なんて言っちゃ駄目に感じる。テンプレ相手を突き放す言葉ではあるから。 ただ、エースが「もうええわ」をテンプレ的に切り出すのは私も物足りなさを感じるから、何かもうちょっと付けたしがあると違うのかなぁ。(その点、令ロの「えっ 終わったんだけど?」は本人が「革命」だと言うのも納得)
・バッテの『積立NISA』ネタめっちゃ面白いけど、寺家の言う「ときどきハッとさせられたりする」要素は無いのと、M決勝でエースがやってた『謝るべきと思った事ではちゃんと謝る』のスタンスも無い。 エースは知ったかぶりしてしまうアホキャラに徹しているし、寺家がちょっと意地悪なネタではある。ただ寺家がエースの知ったかぶり話に乗っかって「積立兄さん」とか言い出す所とかめちゃ面白い。
なんならバッテの積立NISAネタ、個人的には「面白さ」だけで言えばM最終決戦でやったネタよりも面白いと感じたくらい。でもエースのキャラ解釈問題が浮上してしまう。いや、M決勝で「初見」の衝撃を与えたことで、エースは単なるアホではない印象を与えているから…。なんなら寺家が『アナザーストーリー』で念入りにエースのことをアホではなく「ピュア」だと言ってもいる。 積立NISAはめちゃ面白だと思うけど、あれはエースがしっかり「アホ」なんだよなぁ。あくまでも「数あるネタの1つ」として見るなら全然エースがアホに徹することになるのも良いんだけども。M1本目の後にやるネタかどうかって考えると難しいな。(他の大きな場で披露したから使えないっていうのは抜きにしても)
・バッテリィズ、M決勝で披露された漫才上では、お互いに「分からず屋のコイツのせいで振り回されてる」スタンスだから、片方だけが強そうに見え過ぎてしまうとあんまり良くなさそうではある。双方にとって良くない感。寺家がちょっと弱そうに見えてしまうと、逆にエースがちょっと嫌な奴に見えてきてしまうというか…ヘイト調整というか…。
公式プロフィールのエース182cm・寺家176cm、べつに寺家が背低いわけじゃないけど相対的にエースよりも小さくなってしまうから、パワーバランス調整として寺家がエースの高さに合わせて対等感を出してるんだとしたらそれはそれで良い事だと思う(憶測と解釈)
仮に寺家の方がエースよりデカい場合、成立はするんだけど、物理的にも寺家側がエースを「見下ろす」形になってしまうのは、たぶんあんまり良くない。バッテリィズの漫才は「ときどきハッとさせられたりする」物だから。寺家サイドの人間、客も、エースのことを見下ろすのではなく、まっすぐ自分の意見を主張する1人の人間として向き合えた方がたぶんきっと良い。