「美」について考えると「美しくありたい」とかまあどこかで聞いた文が邪魔してくる 思考の予測変換と言ったところか
雲は美しいだろうか。そう思って見上げた今日の青空には、紙をくしゃくしゃにしたような、もやもやの雲が漂っていた。
反射的に汚いと思った。さてそれがよく美しいと定義されるようなものでなかったために、最初の脳内分類が「美しくない」となったせいだろうか、はたまた…
そもそも世間一般の美の定義というもの。と、個人それぞれは違って当たり前である。そのはずだが。
「世間一般」は個々の集合体からなるはずなのに、なぜこうなるのか。
こうなる→集約される・その定義でない人の存在の所在が不明
ありふれた疑問に接続した気がする。そろそろ、ここまで書いた内容よりだれかがもっとわかりやすい、そして深い洞察をした結果がどこかに転がってることだろう。
自分自身で考えることに価値を見出しているからこそ、こうして書いているはずなのに、不思議だ。二番煎じだきっとこれ、と、少しでも思ってしまうと、先ほどまであった思考の塊と、それに対する熱意のようなものはどこかへ行ってしまう。
創作しててもそうだ。全部自分のためになにか作っているのだから、二番煎じだろうがなんだろうが作ればいいのに。考えればいいのに。どうせ既にあるならそんなものは「無駄」だと捉えてしまっているのだろうか…
いらない考えは捨てたいなあ。ゴミ箱のアイコンにドロップ。どんな考えでも、ぜんぶ含めて自分だろうか。そうであると願う。