2/16 葬式とエビフライ

kamaemo
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今回は過去一長いので読んでくれる人はふぁいと&さんくす♡

出典は覚えていないが、葬式とは個人のためだけではなく、残された人々のために行うものらしい。葬式を通して故人の死を受け入れ、遺族たちがこれからを生きていくための儀式なのだと。誰から聞いたのか、どこで見たのかは覚えていない。多分ネットだろう。ワイトの知識の8割近くは匿名の誰かがつぶやいた真偽不明の情報で構成されている。そのためこの歳になって社会と接する機会が増え、知識の間違いや偏りが明るみになって恥をかいている毎日だ。

それはそれとしてこの葬式に対する見解はワイトも100%同意している。突然ぽっくりと身内が死に、「あっ、こいつ死んだぞ!オッケー受け入れた」なんて奴はほとんど存在しない。いるとすればそいつがサイコパスか故人が「身内」に値しない人物だったかのどちらかだ。大多数の人ははじめ取り乱す。次に事実を飲み込むにつれて故人との思い出が蘇る。そこでもう二度と会えないのだ、というどうしようもないまでの真実に辿り着き、故人を思って涙を流す。声が枯れるまで泣いた後、深い喪失感に襲われて無気力になる。そしてまた泣き出す。しばらくの間日常を一旦ストップし、悲しみと虚無を繰り返すことになる。しかし待って欲しい。このサイクルに終わりはあるのだろうか?故人を思い出すのは当然だ。そして遺された者が悲しみに沈むのも当然だ。だがそれはいつ終わる?死後3日?1週間?1ヶ月?悲しみは無限湧きするが、残念ながらこの不景気な世の中はそんな遺族を待ってくれはしない。一、ニ週間なら許されるかもしれないが、何ヶ月も家に篭って泣き続けていれば大抵の会社はその者をクビにするだろう。学校だったら単位不足で留年決定だ。そもそもどれだけ悲しんでもお腹は減る。ご飯のためにお金を稼がなくてはならない。グルグルと回り続ける社会と生活において、誰かの死は意外なほど軽い。だから生きているワイトたちはポーズだけでもいいから早く立ち直らなければならない。

そこで悲しみサイクルを無理矢理ぶった斬ってくる不届者兼救世主が現れる。そう、葬式だ。葬式は面倒くさい。日常生活と比べてあまりにも厳かで格式張っている。普段着ないような正装をしなくてはならないし、しけたツラした奴らが続々と集まってきてハンを押したような常套句を口にするし、暑いんだか寒いんだかわからない葬式会場でじっと座って延々と坊主のお経を聞かなければならないし、焼香の番が回ってきても48手だのアヘ顔だのくだらない知識はあるくせに社会常識はないため目の前の灰をどうしたらいいのかわからない。不慣れな行動へのストレスと厳粛さへの反抗心が線香の長さに反比例して高まっていく。最早あまりに早く終わってほしくて悲しみが怒りへと転化しそうになる。しかしこんな型通りの儀式を淡々とこなさなければならない。この儀式感こと非日常感こそがサイクルを断ち切るのだ。日常に横たわる悲しみを葬式という非日常に持ってきて一旦「おしまい」にする。そうすることで日常に戻った後、故人との別れは一度ちゃんとした形で「終わった」のだから、と前へと進める。葬式とは「故人の見送り」、「故人との別れの場」と同時に、「終わりを認識する儀式」という意味もあるのかもしれない。故人との関係の終わり、後悔や未練の終わり、悲しみの終わり。そして生きる人は生きる限り先へ進む。葬式は何もかも永遠に続くと思ってしまいがちなワイトたちに「終わり」を教えてくれるのだ。

なぜこんなに長々と葬式と終わりについて語ったかというと、先日修論提出を終え、本日最後の書類を提出したワイトが「学生生活の終わり」を認識したからに他ならない。今日の正午に書類を提出し、教授の部屋から出た。その足で校舎を出て、昼食に向かう。今日は何を食べようか。学食か、カフェか、それとも外の弁当屋か。たまにはカフェもいいな。いや、後輩の食べてた弁当がうまそうだったから弁当屋へ。学食の唐揚げもうまいがそちらはまた今度だ。パリパリでうまい唐揚げ……、また今度……。そこまで考えた時、ワイトは自分がもうこの学校に二度と来ることはないと気がついた。発表を終え、修論を提出し、書類を出した。もうやることは残っていない。もうこの学校に来る必要はないのだ。そう気がついた時、少しだけ動揺した。最後に食堂に行ったのはいつだったか、何を食べたのか、カフェは?弁当屋は?何が最後だった?ワイトは思い出せなかった。それだけじゃない。最後に図書館に行ったのはいつ?何を借りた?あの本、読みたかったんじゃないの?「また借りればいい」?もう来ないのに?学部生時代にみんなと遊んだあの教室、あの部室、最後に行ったのはいつ?サークルの後輩たちとももう会えないね、最後に会ったのはいつ?「また会うつもりだった」?もう会えないってば。自問自答を繰り返す。沢山の過ぎた話が頭の中をぐるぐる巡る。ワイトが終わりを認識しないうちに、大半のものは終わっていたのだ。終わりを認識していないからこそ、終わりが存在しない。終わりが存在しないから、まだ続くと思ってしまうのだ。これが最後の昼食だと気がついたワイトは大いに悩み、結局弁当屋へ向かった。これで学生生活で最後に食べたものは弁当だったと覚えていられる。一つだけ、ほんの些細だがちゃんとピリオドを打つことができた。少しだけ安心した。弁当屋についた後も何を食べようか死ぬほど悩んだ。弁当屋のおばちゃんがワイトを不審な目で見るようになって数分経ち、ようやく注文した。

学校に戻り、弁当を開ける。結局いつも通りの肉肉しいミックス弁当だ。しかし今日は一味違う。なんとトッピングにエビフライまで注文したのだ。唐揚げにハンバーグにトンカツだけでも贅沢なのに、エビフライまで!?こんなに欲張りでいいのだろうか。いいのだ。なぜならこれは最後なのだから。エビフライはワイトなりの献花なのだ。ワイトはいつもより神妙に手を合わせ、弁当を口に運んだ。一口一口を噛み締める。ハンバーグのソースの濃さを、唐揚げのザクザクした衣を、エビフライのプリプリを舌と歯で目一杯味わう。いつもは何も考えずに食べていたものを、何一つ忘れないように記憶するように味わう。まるで修行中の料理人のようでもあったし、半ば儀式のようであった。これが最後の弁当だから、最後まできちんと味わって終わりにしたいのだ。最後の一口を食べ終え、蓋を閉じる。これでこの弁当を食べることは二度とないのだろう。しかし後悔はない。ワイトは今、この弁当と別れることができたのだから。これからの人生、遠く離れた地のビルの一室でふと学校の近くにあったあの弁当屋のことを思い出したとする。その時ワイトが思うことは「また食べたいな、でも行けないな」ではなく「とてもおいしかった。でも二度と行くことはない」だ。こうしてエビフライの献花をたたえ、ワイトの弁当への葬式は幕を閉じた。一つの物事に未練なくケリをつけられたことに満足して研究室へ戻った。ワイトは思う。例えば決して叶うことのない夢、やり直したい過去、もう会うことはない人。全て葬式をするべきだ。棺の中に横たえた「それ」にいっぱいの花と未練を詰め込んで燃やしてしまえ。あの夢に献花を!あの過去に献花を!もう会わないあの人に献花を!

ルンルンで研究室に戻る途中、ワイトは身辺整理をしていないことに気がついた。使っていた薬品、資料、書類、パソコンの中には無数のデータ……。今日一日で終わる量ではない。片付けが大の苦手なワイトは心が折れそうになった。これからしっかりと「終わり」のために片付けなければならない。というかまだ学校に来ないといけない…?ということはまた昼食を食べることになる?どうやら学生生活の葬式はもう少し後になりそうだ。

@kamaemo
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