こんばんは、今日も今日とて絶賛ニート中のワイトです。突然だが、死にたいと思ったことはあるだろうか。この多様性の時代にわざわざこんなクソSNSに執着しているみんななら絶対にあると思う。当然ワイトもある。しかしワイトはこの裏垢の人みんな好きだから死んでほしくないと思っている。例えみんながワイトのことを嫌いでもワイトはみんなに生きていてほしい。嘘、愛して♡
というわけで今回はワイトの2×年の人生で編み出した、死にたくなくなる方法をご紹介する。どんなに悩んでいても、結局は「死」が一番恐ろしいのだとワイトは思う。今回ご紹介する方法で、少しでも希死念慮が薄れてくれたら幸いだ。
まず一つ目は、道頓堀の観覧車に乗ることだ。これは道頓堀の観覧車でなくても構わない。地元にある小さな寂れた遊園地のジェットコースターでもいいし、公園にあるジャングルジムでも問題ない。間違っても大手テーマパークのアトラクションに乗ってはいけない。大事なのは安全性がイマイチ確立されていないことだ。つまり大手でもフライングダイナソーだけは例外だ。
これはワイトが20歳になったばかりの頃の話だ。このくらいの歳だとよくあることだが、ワイトは今が人生のどん詰まりだと感じていた。志を持って入学したはずの大学生活に楽しみを見出せず、周囲は皆自分の敵であると本気で思っていた。逃げ出そうにも中退する覚悟もその後の展望もなく、ただサボるという中途半端な逃走で心を癒す日々。中途半端な手段にリターンはなく、リスクのみが残る。現にその日のワイトは折角平日に道頓堀をぶらついているのに、出席日数と単位数のことで頭がいっぱいで全く楽しめていなかった。きっと今頃授業中だろう。それなのに自分はこんなところで油を売っている。ああ、学校に行けばよかった。ごめんなさいごめんなさい。誰に当てたのか分からない謝罪が口から溢れる。しかし、例え時間がその日の朝に巻き戻ったとしてもワイトは再びサボるのだろう。そう考えるともうどうしようもない気がしていた。全く自分に希望が持てない。いっそここで死んでしまおうか。戎橋の下、薄暗い緑色の川面を見つめながら、ワイトは本気でそう思った。そうだ死のう、どうせ生きていてもワイトなんて何の価値もないのだ。死んでしまおう。それが逃げ道ではないと知らない愚かなワイトは、水底から立ち昇ってきた泡のような希死念慮に支配された。それからは楽しかった。今日の晩には死ぬのだから今は何をしたっていいのだ。何をしようか。財布を気にせず美味しいものでも食べようか、それとも死装束を買いに行こうか。死ぬことが決まると一変、とても清々しい気分だ。何をしても構わないという事実がワイトの気分を高揚させる。今ならなんでもできそうだ。そんなワイトの視界に入ったのが、あの観覧車だ。
ドンキホーテ道頓堀店の観覧車は、道頓堀のシンボルの一つだ。巨大な立体看板やネオンを押し除け、特段大きくて派手な黄色をしているそれはとにかく目立っている。道頓堀の建築物の中では群を抜いて背が高い。また、観覧車の中心、支柱に当たる部分には巨大な恵比寿様とドンペンが肩を組む立体看板がある。まるで道頓堀のすべての建物に対し、「道頓堀上空は俺らの領域や」とでも言いたげな威圧感を放っている。普段なら物珍しげに見るもスルーするワイトだが、その日異常な精神状態になっていたワイトは、迷わずその観覧車に乗ることを決めた。乗車量700円も、冥土でする土産話代と考えれば安く思えた。
ところでこの観覧車は一般的に観覧車と聞いて想像する構造とは少し違う。普通の観覧車は、小部屋のようなゴンドラの扉を開けて乗り込み、横向きに座るものである。しかしこの道頓堀観覧車(仮称)は違った。まず扉がないのだ。乗り場で待っていたワイトの脳裏に「?」が浮かんだ。目の前に、4人がけの椅子がくっついた壁が降りてきたからだ。まるで半分に割られた果実のような形をしている。あれ、扉は?と思いつつ、剥き出しになっている椅子に座る。安全レバーがワイドの膝に落ちてくる。安全レバー???スタッフさんが機体のから何かを下ろした。それが前面部だった。椅子がある後ろ半分の上から前半分が覆い被さる形でこの観覧車は構成されているのだった。イメージとしてはガチャガチャのカプセルが近いかもしれない。見慣れない構造に「???」となっているワイトの心など知らず、スタッフさんたちは笑顔でいってらっしゃ〜い!とワイトに手を振った。まだギリギリテンションを保てていたワイトは笑顔で手を振りかえした。1分後、この余裕は消え去ることになる。
異変に気がついたのは出発して20秒くらいの時である。異音がする。明らかに支柱と繋がっている側面からギィ、ギィ、と軋むような音がする。油を差し忘れたような、足掻いているような不快な音だ。続いて動きに違和感を覚えた。観覧車というのはくるくる回り続けるものであるが、明らかに挙動が違う。まず支柱がわずかな角度傾き、次にゴンドラ本体が斜めになった分を調整するかのように動くのだ。音にすると、グイーーン、ギシッ。グイーーン、ギシッ。非常に不安感を煽る音だった。分かるのだ。一瞬斜めになっている自分が。それから「いや?なんでもないで?」と誤魔化さんばかりのゴンドラの動きが。これ、正しいのだろうか。この挙動、設計段階で意図したものなのだろうか。グイーーン、ギシッ。グイーーン、ギシッ。なんだか音がやばい気がする。普通の観覧車でこんな音しただろうか。グイーーン、ギシッ。グイーーン、ギシッ。恐る恐る支柱を見た。黄色のボディに茶色いまだらが浮かんでいる。錆びてない?これ錆びてない?ちゃんとゴンドラの重みに耐えられるよね?グイーーン、ギシッ。グイーーン、ギシッ。もし、もし登っている最中にゴンドラの重みに耐えられず、支柱が折れたら…。グイーーン、ギシッ。グイーーン、ギシッ。
ここからはパニックである。細かいことはあまり覚えていない。しかし、小さな声で「許してください!ごめんなさいごめんなさい!」と繰り返していたこと、今まで無気力に生きていたにも関わらず、人生でやり残したこと、やりたいことが無限に脳裏に湧き上がったことは覚えている。また東京に行きたい、あの本の続きを読みたい、まだやりたいことが沢山……!ここまでくると希死念慮などどこへやら、ワイトの脳内はライオンの如く「まだ生きていたい」の大合唱だ。もう二度と死にたいなんて言わないから生きていたい、死んでも死にたくない、そんな思いが頭の中を渦巻く。身を縮こまらせ、神に祈りながらひたすら時間が流れるのを待った。足元に乗り場が見えた時、ちょっと泣いた。
ワイトは、ふらふらとした足取りで道頓堀を去った。そうだ、まだ死ぬわけにはいかないのだ。これからの人生でやりたいことが沢山あるのだ。それに気がついたワイトの視界は、いつもよりクリアに感じた。虚脱感は振り払われ、清々しいエネルギーに満ちていた。炎のように燃えるような、という感じではなく、水底で静かに揺らめいているような力だった。さあ帰ろう、と意気込んだところでふと乗車量700円を思い出した。700円…死ぬつもりだったから使ったけど、昼食2日分になったはずの金額だ。いやしかし、生の大切さの授業料だと思えば安いものなのでは?しかし明日の昼食代…それどころか帰りの電車賃は……。生きることの素晴らしさと同時に、生きることの厳しさを思い知りながらワイトは帰路についた。
つまりいっぺん本気で「死ぬかもしれない」と感じるくらいの恐怖を味わうといいかもしれない、という話だ。もし死にたくなったらいつでも関西に来てほしい。一緒に観覧車に乗ろう。そして存分に恐怖を味わうといい。
死にたくなくなる方法の2つ目も書こうと思っていたが、夜が明けそうなのでまた今度ご紹介する。