――子供の頃は、まさか自分があの場処に立つようになるなんて思ってなかったな――
ネクストバッターサークルからバッターボックスを見つめ、青柳慎はふと思った。
夏の高校野球地区大会4回戦。試合は6回表、二死一塁。3対1で今のところ自分達のチームがリードしている。けれど、油断はできない。
相手は、優勝候補で甲子園出場経験もある強豪私立の駿英学園を初戦敗退させたチームだ。いつ点差をひっくり返されるか判らない。まだまだ点が欲しいところだった。
そう、点は取れるだけ取っておきたい、残塁は出したくない、出塁した分は全部点に繋げたい――そんな事を考えていると、バットを持つ手に自然、力が籠った。
キン!
不意に、高い金属音が響き渡る。
はっと我に返ると、先ほどまで打席に立っていた桜井が出塁していた。
これで二死一、二塁。自分が打てば追加点を入れられるチャンスだ。
打席に入ってバットを構え、前を見る。相手投手の左後方、遊撃手のポジションに兄の姿が見えた。
青柳稔――慎を野球の道に引き込んだ相手、自分がもっとも敬愛する選手。
*
子供の頃、慎は音楽が好きだった。何かを叩く音がリズムになるのが面白かったから、音の連なりが音楽になっていくのが楽しかったから、4年生になったら吹奏楽クラブに入りたいと思っていた。ミュージシャンにも憧れていた。
けれど4年生になった時、結局入ったのは吹奏楽クラブではなく、少年野球チームだった。
稔がいたから。「一緒に野球をやろうよ」と云ってくれたから。
音楽と稔を天秤にかけるまでも無く、差し伸べられた手を拒む事など思いも付かないほどに、慎は兄が大好きだったのだ。
それから、野球を中心にして稔の背を追いかける日々が始まった。
中学三年の時、既に高校へ進学していた稔から自分と同じ高校を受験するよう薦められた。
稔が在籍する私立一宮高校は進学校として人気の高い高校で、近年は部活動にも力を注いでいるらしく、野球部も実力をつけてきている。
「今まで同じチームでプレイできなかった分、高校で一緒に甲子園目指そう」と稔は云うのだ。
少年野球でもシニアでも学年ごとのチーム編成だったため、一年違いの稔と同じチームでプレイをした事はない。けれど同じ高校に入れば、一年半に満たない間でも同じチームでプレイができる。甲子園出場という夢を共有することができる。
そう思った瞬間、答えは決まっていた。
「俺も、兄貴と一緒に甲子園行きたい」
慎がそう答えると、稔は嬉しそうに「来年が楽しみだな」と笑った。
それなのに。
慎は稔の期待を裏切ってしまった。一宮高校の入試に受かる事ができず、同じチームで甲子園を目指す夢は呆気なく消えた。
「受かったよ、これで一緒に甲子園目指せるね」と一緒に笑いたかったのに、笑うことができなかった。
入試の結果発表の日「どうだった?」と期待に満ちた眼差しで訊いてきた稔の表情がとても痛く感じられた。
「そっか……、残念だったな」
弟の口から伝えられた結果に、隠しきれない落胆を滲ませて云ったその表情も。
慎なりに受験勉強を頑張ったつもりだったが、元々勉強はそれほど得意でなかったのもあり、進学校はやはりハードルが高かったらしい。せっかく稔が弟のために時間を割いて勉強を教えてくれたというのに、それに報いる事のできなかった自分の不甲斐なさが、心の底から腹立たしく悔しかった。
しかし、やり直しがきかない以上は後悔したところでどうしようもない。同じチームになれないならせめてと思い、一宮高校と親交が深いという三橋高校を受験した。両チームはよく練習試合を組むという事だったし、同一市内だから、春秋のブロック予選や夏の新人戦、秋の市内大会などで対戦する確率が高い。味方ではなく敵としてだけれど、同じグラウンドに立てるならそれでもいいと思った。それだけが「一緒に野球やろう」と云ってくれた稔に対してできる精一杯だった。
*
あれから一年と数ヶ月。
お互い別々のチームで鍛錬を重ね、練習試合でも公式戦でも幾度となく対戦してきた。
けれど、それも今日で終わりだ。稔はこの夏で引退する。どっちが勝っても負けても、もう、同じグラウンドに立つ事はない。少なくとも、甲子園という夢に向かうそれぞれの道程が交差する事はもうなくなるのだ。
稔の高校野球最後の夏に、対戦相手として自分達のチームが当たったのは単なる偶然かもしれない。けれど、この偶然を無駄にはしたくないと慎は思った。
(一宮高を倒すのはおれ達だ。他の奴らに負けて悔し涙を流す兄貴を見るくらいなら、おれの手で兄貴の夏を終わらせる)
もう、後悔なんてしたくない。させたくない。
今までずっと、チームとしても選手としても稔の方が上で、勝った記憶は殆ど無い。特に今のチームになってからは、公式戦でも練習試合でも白星は一度もついていなかった。でも、だからこそ、今日のこの試合で勝つことに意味がある。
(必ず打つ。打って塁に出る……!)
見据える視線の先、マウンド上で投手が振りかぶった。その手から放たれる球に意識を集中する。今だ、と思った瞬間、バットを振りぬいた。
高い金属音を残して、白球が低い軌道で鋭く左前方に飛んでいく。その行方を一瞬だけ確認して、一塁へ全速力で駆ける。視界の隅で、稔が球に飛びつくのが見えた。
(捕られた……?)
一瞬そう思ったが、球は稔のグラブを掠っただけで、左中間へと転がっていったようだった。
ベースを踏んでから視線を転じると、二塁走者の森山が既に三塁を蹴って本塁へと向かっていた。球は、ようやく野手のグラブに納まったところだ。
(よし、間に合う!)
思った通り、直後に森山は本塁を駆け抜けた。
(4点目が入った……!)
自分の力でもぎ取った1点に思わず、「やった!」と叫ぶとともにガッツポーズをしていた。
その後、反撃に出た一宮高校にすぐに2点を奪われ1点差まで追い詰められたが、エースの篠田が踏ん張りを見せ、7回以降は無失点で切り抜けた。
結局、6回に慎が放った安打が決勝打となり、試合を決したのだ。思った以上に意味を持つ一打となった。
試合後、挨拶が済むとどちらからともなく歩み寄って握手を交わした。稔の表情は、どこか晴れ晴れとしているように見えた。
*
「慎」
試合後の片付けが一通り終わった後、球場から引き上げようとしたところで稔が近づいてきた。
足を止めると、先に行ってるぞ、と気遣いを含んだ一言を残して連れ立っていたチームメイトたちが帰っていく。「ああ、後で」とそれに軽く応えてから、稔に向き直った。
「お疲れさま」
「おまえもな。……腰の様子は?」
慎は試合中、腰に死球を受けていた。大事はなく応急処置の後そのまま試合続行できる程度だったが、おそらくずっと気にかけてくれていたのだろう。
「大丈夫。痛みももう無いし」
「そうか。よかった」
安心したように笑った後、稔はずっと手に持っていたものを差し出した。
「これ……おまえにやろうと思って」
使い古された金属バットだった。自分のものではないが、よく見慣れたそれは、高校入学前にシニア用のバットから買い換えて以来、稔がずっと使っていたものだ。使い込まれて傷だらけだが、その分、稔の野球への想いがたくさん詰まっている。
「えっ、いいの……?」
驚いて稔の顔を見ると、彼はこちらをしっかりと見つめながら頷いた。
「ああ。おまえに使って欲しい。このバットで、俺の分まで甲子園目指して欲しい」
ほら、と、更に差し出されたバットを受け取ると、稔のぬくもりが伝わってきた。グリップを通して手のひらに感じるそのあたたかさに、目の奥までもがじわりと熱くなる。
涙が滲みそうになるのを隠そうと慌てて目を閉じると、頭に温かな重みが加わった。稔の手だった。
「おまえがそんな顔すんな」
苦笑交じりの優しい声が聞こえると同時、くしゃりと優しく髪をかき混ぜるように手が動いた。
「うん……兄貴、ごめん。ありがとう」
慎が云うと、それに応えるようにぽん、と頭をやさしくたたいた後、あたたかな手はそっと離れていった。
遠ざかっていくぬくもりを内心名残惜しく思いながら視線を上げると、稔はしんみりした空気を断ち切るように、バッグを肩にかけ直しながら明るい声で云った。
「さてと、学校に戻るか。お前も一旦学校に戻るんだろ? 途中まで一緒に行こう」
「うん!」
屈託なく笑いかけるその表情を眩しく思いながら、慎はまた泣きたいような気分になるのをぐっとこらえ、精一杯の笑顔で応えた。
*
稔は色々なものを慎にくれる。野球の楽しさも、気遣いの優しさも、大切な思い出も。そんな稔が大好きで、いつもその姿を追いかけていた。優しいだけでなく、優等生で頭が良く、野球も上手い兄にはいつも憧れていた。
その一方で、野球選手としての対抗心も密かに燃やしていて、いつか越えたいとも思っていた。
「いやー、ほんと、試合もだけど今回、兄貴よりおれの方が成績も良かったからな。ついに兄貴を超えたって感じ」
試合直後にチームメイトから「兄弟対決、今回はお前の勝ちじゃん」と云われた時、試合に勝利した高揚感もあってついそんなことを云ってしまったけれど。
でも本当は違う。確かに試合には勝ったし、安打など数字の上でも慎の成績が稔を上回った。けれど、やはりまだまだ自分は兄に及ばない。
稔から受け継いだバットに目を落とし、慎は思う。
いつか、本当の意味で兄を越えられるようになろう。
それが、自分が兄に対してできる最大の恩返しだろうから。
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※2007年の夏に行われた夏の高校野球地区大会で実際にあったことをベースに、同年12月に二次創作として書いたものですが、Web掲載に当たって氏名や校名、試合における数字等の変更のほか、セリフの大幅な加筆修正、独自要素の追加をしています。
(2007/12/27, 2024/2/25加筆修正)