友だちは多いほうではない。それがコンプレックスだった頃もあったけれど、今はこれでいいと思っている。
友だちというのは双方向の関係だから、私がそうと思っていても向こうにとってはそうでないケースもあって、私が友と呼ぶひとと実数とにはおそらく相違がある。定義はそれぞれだから、さみしいけれど当たり前で仕方のないことだ。
自分にとっての友だちの定義について、子どもの頃からずっと考えていた。同じクラスになったら? 違う。会って遊んだら? 違う。
知り合いたいかどうかがひとつの指標になる、と最近は思っている。
互いに互いをよく知りたいと思うかどうか。都合のいいことでも、よくないことでも。どんなに遠く離れても、何年会えなかったとしても、私は己が友と定めた相手について知りたくないことなどひとつもない。いま何に関心があって、どんないいことがあって、最近は何に憤り、どんなつらい目にあってどう感じたのか。久しぶりに会った日におとなぶって適当な世間話をするくらいなら、そんなことをずっと話し合いたい。
でも、おとなになってしまったわれわれはいざその時が巡ってきても「学生じゃあるまいし」とか「たまにしか会えないのにこんなつまらないことを聞かせるわけには」とか、とにかく余計なことを考えては口をつぐんでしまうのだ。そうしている間にも互いを知る機会は失われていくのに。
もっと早くにほんの少しの勇気や思いきりを持つことができていたら途切れなかった縁はいくつかあって、もちろんまだ間に合いそうな縁だってあって、今年はせめて後者をつなぎ留めたいものだなあと思う。
おれたちの王国だった西陽さす迷路にも似た市営団地は
(初出:22.03.05 うたの日)