「怒るだけ損」とか「言うだけ無駄」とか、そういう諦め方が嫌いだ。自分がいやな思いをしたことは一切打ち明けないで、勝手に呆れて勝手に去る感じ。それが「おとな」や「賢いやり方」ならば私は子どもで結構、愚者上等、と最近は思う。
通信途絶していた「子ども」寄りの友だちと再び交流するようになったので、今日はかれのことを書きたいと思う。かれと話すときの私の一人称は私ではないので、以下そのように書く。
記憶に新しいところから話すと、第一にかれは酒癖が悪い。一度手を放した原因のひとつも深酒によるトラブルなので、正直言って今でも心の底から断酒してほしいと思っている。まあかれの人生なので、おれができることはお願いの範疇に収まる。もし読んでいたら今よりちょっと控えてくれ、頼むよ。きみには長生きしてほしいしもう酒由来での喧嘩はしたくない。
かれについて好ましく思うところはいくつかあって、なかでも「おとな」らしくない点は手を放す前もつなぎ直した今も厄介な美点だと思っている。承服しかねることについては徹底抗戦の構えを取る、おかしいと思うことにはおかしいと言う。たとえ軋轢や摩擦を生んでもかれはかれの正義を曲げない。酒に呑まれた状態で構えだけを取られると本当にきついのだけれど、素面のときに見せるその姿勢にエンパワメントされたことは数知れず、ああ、怒りを怒りとして表明するひとがここにいるのだと励まされた。
怒りは原初の感情、「おとな」なら忌み嫌い、きれいにラッピングしたうえにリボンまでかけるやつもいる。それはもはや怒りとして感知されない。それでは意味がないことを、かれもおれもきっとずっと前から知っている。いきすぎた怒りはそれこそひどい軋轢を生むので実際のところバランス感覚も大事だけれど、バランスばかり見て抑圧することに慣れてしまうと怒りたいときにうまく怒れなくなることを、おれはもう知っている。
おれと言い争ったときのかれは駄々をこねはしても取り繕うことはしなかった。1年半ぶりに連絡をよこしたときのメッセージにも、注意深く文章を組み立てた痕こそあったが小手先の言葉はなかった、ように見えた。これで騙されるなら本望だとその手を握り返したことを、今はよかったと思っている。
そつなく摩擦を生まず表面上穏便に済ませるやり方が悪いとは思わない。でも、そんなのは仕事の人間関係だけで充分だ。泣いても泣かせても怒っても怒らせてもいつか仲直りできるひとたちと一緒に愚かな子どもでいたい、いつまでも。
ためらいを知らないような顔をしてきみは間合いに踏み込んでくる
(初出:22.04.05 うたの日)