今よりもずっと具合が悪かった頃、桜といえば夜桜ばかりだった。当時は真昼の日差しにも人波にも耐え難い苦痛を感じて、とてもじゃないが朝から起き出して花見弁当をこしらえ昼前に家を出るなんてことは不可能だった。
それでも桜がすきな私のためにパートナーは夜桜見物を提案し、地元の人だってあまり来ないような寂れた川べりへ先導してくれたのだった。それはそれでもちろんいい時間だったし、昭和のフォークの歌詞にでもなりそうだと面白く思ったりもしていた。けれど私は夜桜のほかに、陽に透かされた桜の花びらを見ることもすきだった。
この日曜、それにその前の日曜もお花見に行った。前の日曜はまだ桜が咲いていなかったけれど、「菜の花を見たいね」という話になった。パートナーとふたりで場所を探し、花桃も一緒に見られるところを見つけてお弁当とウィークエンド・シトロンを持って出かけた。河川敷にどう入ったらいいかわからず少し迷ったけれど、無事に着いて堤防の具合のよさそうなところでお弁当を広げた。食べながら、親子連れ、近隣の高齢者施設から見物に来ているらしい利用者とスタッフ、それに犬連れの人が花を楽しむのを眺めた。

あまりうるさくするような人はいなくて、お酒の入った人もおそらくほぼいなかったと思う。同じところを飽きることなく何周もする幼児にメロメロでついていく父親らしき人とか、子どもよりはりきってタモ網を構えている母親らしき人とか、前方から来る柴犬と仲良くしたくて駆け出そうとするフレンチ・ブルドッグを全力で止めている飼い主とか、とにかくやたらに平和だった。それらすべてが春の少しけぶった空気に包まれていて、自分たちもいまその景のひとつなんだと思うと少しくすぐったいような気持ちになった。
食べ終えて堤防を下りてみると、思ったよりも背の高い菜の花畑だった。人ひとりがちょうど通れるくらいの細い道がつけられていたので、パートナーをそこに立たせて遠くから撮る。最近はパートナーも撮られることに慣れてきて、背を向けたかと思えば振り向いたり、私がマニュアルフォーカスでもたつくのを見越してちょっと止まってくれたりする。人がさほどいなかったこともあってすき放題撮った。人を撮るのがすきかと言われるとそうではないけれど、誰かとの楽しい時間を記録するのに写真はうってつけだと思う。この日も100枚近く撮った。あとから見返して思い出せることも思い出せないことも残しておけるのはうれしいことだ。


帰りがけに先ほどのフレンチ・ブルドッグに見つかって、「いぬがすきなにんげん!」という顔で突進された。遊べ撫でろと何度も頭突きをかまされ、頬をべろべろに舐められ、そういえば犬の舌ってこんなぺっとりしているものだったなあといとこの家にいたハスキー混じりの犬を思い出しながらたくさん撫でた。フレンチ・ブルドッグは遊び足りないのか「かえりません」と仰向けになってしばし抵抗したが、飼い主の困り顔を見上げて「しかたないな」といった面持ちで立ち上がり歩き出した。その背を見送り、私たちもくすくす笑いながら車に乗り込んだ。
つい昨日は近所の友だちを前々から誘ってあった。雨予報にハラハラしていたけれど、私はもし晴れ人間コンテストがあれば入賞できるくらいの晴天率を誇り、友だちは友だちである神様に愛されているといっても過言でない天候操作系なので(?)当然のように晴れた。
朝からパートナーとふたりで作ったおかずを重箱に詰めて友だちを迎えに行った。そう、なんと朝起きて花見弁当をこしらえて昼前に家を出たのだ。ちなみに調理の合間に入浴もした。快挙。
広い公園のまだ五分咲きといったソメイヨシノを友だちは「白い桜」と不思議そうに眺めていた。故郷でメジャーな桜はもっと赤みが強いそうで、ソメイヨシノの歴史がたかだか200年弱であることを考えるとたしかにべつの桜が根強く残る土地もあるだろうなと思う。昨日ちょうど見頃だったのはその「白い桜」の親にあたるエドヒガンザクラで、こちらはいかにも桜色。これとオオシマザクラを掛け合わせたのがソメイヨシノで、おそらくソメイヨシノの白はオオシマザクラの特徴を受け継いだものだ。
ベンチでお弁当を広げてつまみながら、広い池の向こうに咲くエドヒガンザクラとユキヤナギを眺めた。友だちはぱくぱく食べて、おかずをつまむたびに褒めてくれた。3人で米粒ひとつも残さず平らげてからっぽになった重箱を閉じるのは気持ちがよかった。


食べ終えてからはなんとなく池の向こうに行くことにして3人で歩いた。ユキヤナギのむせかえるような香りに驚いたり、いい感じの棒を持って歩いている大人やラジコンを散歩させている大人に和んだりした。そのうちにここでも満開の菜の花畑を見つけて飛び込む。鮮やかなイエローに埋もれるようにして立つふたりを写真におさめることができてうれしかった。
そこからだんだんに脱線して私がオオイヌノフグリだのヘビイチゴだのハナダイコンだのの観察を始めると、友だちも「最近カタバミとクローバーの区別がつくようになって」と言いながら隣にしゃがむ。土がいいのか、日当たりなのか、いやに茎が太く葉が大きく、想定の3倍くらいに育っているものもあり、パートナーなどはあまりに巨大なクローバーに辟易しながらも付き合ってくれた。


徐々に陽が傾き始めたのでキッチンカーをひやかしながら車に戻り、公園を離脱。ジェラートがおいしいお店に向かった。以前パートナーとふたりでクロスバイクに跨って来た場所で、そこに車で乗りつけているのが少し不思議だった。肌寒かったのでさほど混まないだろうと踏んでいたけれど、なんと外まで並んでいた。ただ並んでいるどの人も機嫌がよさそうで、わかるぜ同志よ……と勝手に納得しつつ最後尾に並ぶ。肌寒くてもちょっとくらい並んでも楽しみにできるものがあるってすてきなことだ。
パートナーは生チョコ、友だちはチョコチップとミルクのダブル、私はミルクを頼み、それぞれ手元にないものはひとくちずつ交換して食べた。私はあまり変化を好まないので定番というかベーシックというか、とにかく変わり映えのしないもの、つまり間違いのないものを注文しがちだけれど、ふたりはそうでもない。3人で出かけて何か食べることになるとふたりが何か私のそれよりも面白げなものを注文してひとくちくれる、という構図がよくうまれるような気がする。次はチョコチップもいいなあと思いながらふたくちめをもらった。

ここにも菜の花畑、それも迷路があって3人で入った。友だちは「行き止まり全部行く!」と豪語してたかたかと駆け出した。私は片方の壁に沿って歩いて早々と出口に着いた。どっちもいい人生だなと思う。出口前にはトラクターのタイヤを倒してこしらえたベンチがあり、そこに座って友だちが冒険を終えるのを待った。上空では個人所有らしき小型飛行機が旋回を続けている。部活の走り込みだろう子どもたちが何人か通り過ぎた。俳句になりそうだなあと思いながらただその景色を眺めていると友だちが戻ってきて、また3人で少し迷路に分け入ったあと帰路についた。17時を過ぎる頃に友だちを降ろし、またすぐ遊ぼうねえと言い合って解散。
帰路を運転しながら、自宅近くに咲く桜を横目に、ああ、ひるまなのかも、と気づく。
幼き日の痛みが少し癒える時この世はひるまなのかもしれない 鏑矢一手
もちろんふたりきりで見る夜桜もすきだ。ただそれしか選べなかった時代があった。今だって簡単にそこへ戻ってしまう日もある。明るいほうへいくばかりが幸せじゃないとわかっている状態で、それでも友だちやパートナーと晴天に繰り出して気負わずに過ごせる日があることの幸せを、ちゃんと噛み締められることがうれしい。これが私のひるまなのかもしれない。ひるま、噂には聞いていたけどあったんですね。
友だちともパートナーとも、またお弁当を持って出かけようねと約束した。それがもし夜桜だったとしても、今度は選び取ったものだから、きっとそこはひるまのあたたかさだろうと思う。