友達から好きなアーティストが自殺した話を聞いた。学生時代ライブに通い続けた思い入れのある人だったらしい。
私はその話を聞いて咄嗟に「自殺という形だったけど、楽になれたかもしれないよ」と言ってしまった。
その友達には睡眠障害の話はしたことがあるけれど、精神疾患の話はしていない。だから、その言葉を瞬発的に発した私に対して疑問を持ってもおかしくなかった。普通の人は多分そういう風には思わないはずだから。
友達は気にする様子はなかった。私と友達は少しの間、死について話した。
私は友達に自分の思いを伝えた。
「きっといきなりとか衝動的じゃないと思うよ。人から見ていきなりだとしても、積み重ねで自殺する人がほとんどだし。死ぬことが救いだったのかもしれないよ。それは本人にしかわからないことだけど」
「ショックだったけど、もし楽になれたのなら、よかったと思う」と言った友達の言葉が印象的だった。優しくて好きだ。
いつだって私たちは人の心の深部を見ることはできない。知りたくて言葉でいくら聞いたとしても、本人の抱える思いと同じものを受け取ることはできない。その人が受けた傷と同じ傷を負うことはできない。だれかの傷や痛みを背負いたいと思っても、それはかなわぬ願いだ。
逆に一緒に背負ってほしくても、大事にしたい人にそんな思いをさせることは間違っている気がする。
私も日常では明るく笑ってる。「落ち込んでいるところなんて想像できないよ」と言われる。私は家で毎日のように泣いているのに。それを笑いながら話した時に、「無理されたくないな」と言われてうれしかった。ありがとう。
死なない。今日も死ななかったよ。
人の気持ちを理解することは難しい。だけど、寄り添いたいという想いが誰かの心を救うことは事実だから、かけられる言葉はかけてほしい。
「大丈夫?」「好きだよ」「無理しないでね」「いつでも連絡してね」「がんばらなくていいんだよ」
無責任な言葉は罪だと言う人もいるけれど、死にたい気持ちをふわりと軽くする瞬間がある。死にたい瞬間にその言葉を受けて立ち止まることがある。ぐらぐらの梯子の上で絶望している時に、差し伸べられた手が光になることがある。
だから、辛そうな人には言葉をかけてあげて。誰かを救うことが、巡り巡ってあなたを救うことにもなるかもしれない。
私は自分のことは自分で救うと決めたけれど、人からもらう言葉がうれしくてしょうがないよ。ずっと昔から人が薄ら嫌いだけど、同時に愛おしいと思う。そんな矛盾した思いを抱えて今日も生きました。
久しぶりに食べた焼き肉が美味しかった。