文章がうまくなりたいと思った4つの出来事

kamone
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これまでに文章がうまくなりたいと思った瞬間が4回あった。これは大きいもので、うまくなりたいと日々どうしようもないほどに思ってる。毎日ね。

1回目は17歳の時に愛犬が急死した時。

その当時はツイッターなんてなかった。mixiはあったと思うけれど、私はやっていなかった。当時は高校生の間で一世風靡していた「前略プロフィール」の「リアルタイム」で呟いていた。リアルタイムは呟きができ、コメントで交流ができる(カスタマイズすれば複数人で呟くことができた気がする)。私はその中で高校3年間欠かすことなく毎日のように呟いていた。

愛犬が死んだ時、リアルタイムで胸中を吐露した。辛い、悲しい、どうして、大好き、ごめんなさい、会いたい……文章能力も語彙力もない自分から紡がれる想い。気持ちは爆発しそうなほどに大きいのに、言葉は単調で、呟けば呟くほどに私の心から離れていくような感じがした。

どうしたら、何て言えば伝わる?

考えても考えてもわからなかった。正確にはこの時はまだ文章がうまくなりたいと思っていなかった。私の中で最も“伝わらなさ”を感じた瞬間で、文章がうまくなりたいと思う土台のようなエピソード0的な出来事だった。伝わらなさを知ったからこそ文章がうまくなりたいと思った重要な経験だったと思う。だからこの出来事を1回目としてカウントする。

2回目は19歳の時に双極性障害になって鬱で苦しんでいた時。心の中に墨汁を流し込んで満たしたみたい。真っ暗だった。口を開くと、口からも黒い液体が出てきてしまいそうだった。どれだけ涙を流しても思いが消化されることはなかった。「辛いよ、辛いよ」と泣き出しても私の心をわかってくれる人は誰もいなかった。愛犬だけが支えで、生きる意味だった。それでも負けたくなくて自分1人だけが読者である日記帳に心のうちを書き込んだ。どれだけ苦しみの言葉を書き込んでも誰にも届きやしない。それがあまりにも辛かった。誰も私の気持ちをわかってはくれない。文章がうまくなれば、私の言葉が届くんだろうか。この苦しみが伝わるんだろうか。文章がうまくなりたいと心から思った。

3つ目は手紙を書いている時。20歳の時だろうか。母や当時大好きだった彼氏に宛てて手紙を書いていた。私の手紙は「大好き」だらけ。嘘じゃない。嘘じゃないんだけど、大好きってもっと言い方があるんじゃないかってモヤモヤした。文章がうまくなれば、私の想いをもっとちゃんと伝えられる気がした。いろいろなレパートリーで大好きを伝えられるようになれるのなら、文章がうまくなりたいと強く思った。私は今でも愛を伝えるために文章を書いていきたいと思っている。

4つ目はどうしても就職したいと思っていた出版業界のESや作文を書いている時。応募数でいったら100どころか200、300でも足りないかもしれない。それくらいこの業界に熱い思いを捧げた。設問もよくわからないし、何を書くべきかも判然としない中、手探りで書いた。とにかく面白いと思ってもらうためにESや作文を書いて書いて書きまくった。しつこすぎるほどの執念で希望の業界に入ることはできたけれど、心身ともに削ってしまったから良いことばかりではなかった。でもとにかく受かりたくて心の底から文章がうまくなりたいと思ったのは事実だし、私を前に進めさせてくれた。

と、まぁこんな感じで文章がうまくなりたいと思ったのでした。

私にとって伝える手段として有効なのが文章だっただけで、それは人によって音楽や絵など千差万別だと思う。何が優れていて何が劣っているというものではない。

表現方法が何にしろ、伝えたいことがあるのはみんな一緒だと思う。誰かに何かを伝えたい。思いを伝えたい。それを形にするために生きているのだと思う。私はそうやって日々を生きている。私の書いているものがどうかあなたに届きますように。そう思いながら。

@kamone
猫と犬を愛し、雑文を書き散らかす。病める時も健やかなる時もハイアンドロー。ここは思考の赤ちゃん置き場。noteも書いてる。note.com/_kamokamone