こないだ自分は自己中な人間なんだという話をした。話というか前置きみたいな書き方で、大して具体的な話もしていない。自分を中心に据えて考えるというところから、理解してくれという感じで書いた。それでは、自己中エピソードを上げていくと言いたいところだが、クソみたいなエピソードはあるにしても露悪的なのってあまり好きじゃない。できることのなら森羅万象から好かれていたいと思う(それは無理だが)。嫌われるのってつらい。私がどのように望もうと嫌われる時は嫌われてしまうから、自分で表現することが許される時にはできる限り嫌われない方法を選びたい。それが成功しているかは別として、そう思う。いつだって愛されたい。
自分のことが嫌だなと思うことは数えきれないほどあるが、書いている時にそう思うこともままある。エッセイなんてものを書く人間はみんなそうだと思うが、自分に矢印が向きすぎていて嫌になる。これは自己中の話にも繋がる。どれだけ自分に興味があるんだと嫌気がさす。もっと他人に興味を持てよとも思う。他人に興味がないわけじゃない。むしろあるのだが。
エッセイのような性質のものを書く時、そこに多少なりとも責任が生じていると思っている。主観的に誰かを描写する際に、その人の尊厳が損なわれないことが大事だと思う。誰かの言葉を出力する時、それが本当に正しいことなのかを自分に問う。その人が話す言葉、私にかけてくれた言葉、伝えてくれた言葉、そういったものは全てがイコール書いていいものではない。胸に秘めなければいけない言葉がたくさんある。取捨選択をして、人の言葉を書く。これはきっと正しいだろうと確信を持って。だから自分以外を描くことには多少なりとも責任が生じるから、気軽にはできないのだ。
書き手の中には、「書いてもらってうれしいでしょ」というような人もいると思う。自信なのかな。何なんだろう。私はそういうの傲慢以外の何ものでもないと思うから、今持ってる意識をなくしたくないと思う。単純に私が不器用なのもあるが。
その点、自分のことは気楽でいい。いくらでも好きなように書ける。私がOKなことは何でも書いていい。思考であろうが、過去の出来事であろうが引っ張ってき放題。たまに“過去の自分から嫌われそうなことは書くのはやめよう”と思うくらい。そういうわけで、ついつい自分に矢印が向きがちなのだ。私は良い人ではないけれど、善い人でいたいと思っている。
【良い】優れている、好ましい
【善い】道徳的に望ましい