泣いていない日が続くと、すぐに何で泣いていたんだろうと思う。私の場合そんな平穏な状態は数日しか続かないが、それでもそういう風に思う。たった数日で。
えっもしかして泣いてない日々を送る人には、泣いている人間の感覚なんて全くわからないんじゃないのか!?と思ったりした。私の苦しさみたいなのも、“へ〜こんな辛そうな人がいるんだな”と思ったりするんだろうか。動物園の檻の中と外の関係みたい。見せ物みたいでちょっと興奮する。
辛そうな人を見てその人の気持ちをわかりたいと思うか、“自分はこうじゃなくてなくてよかった”と思うかは人それぞれだ。私はどういう感情を抱いてもらってもかまわない。お前の中によ、私の気持ちが流れ込めばそれだけで満足なんだよ。なんてね。
読み物って何であれ、読んだ人のものなのでそこに何を抱くかは自由だ。ただエッセイのような性質のものを読んで、「作者は◯◯と言っていることから、△△と主張していることがわかる」みたいな感じで、意味を取り違えられることは困る。シンプルに嫌だ。もちろん時には書き手の言葉不足もあるだろうが、自分なら書いてないことを必要以上に読まないでほしいとも思う。最終的には、うるせーなマジでって思いそう。
何もそんな意見届いていないのにそんな想像をした。
私の涙ってもはや呼吸や排泄のようなもの。違うとすれば、呼吸も排泄もちゃんとした意味があるけれど、私の涙には流すほどの量と比例するほどの意味がない。蛇口をひねったら水が出るように、刺激を与えるととめどなく出る。水分摂取量も多いからね。出ちゃうんでしょうよ。
そんなことを考えたら昔のことを思い出した。
10代〜20代前半にかけてはこの症状はもっとひどかった。人前であろうと涙が止まらないことも多々あったし、ありとあらゆることで泣いていた。当時付き合っていた人にはあまりに病的に泣くから自分で、「これには何の意味もないから、何も感じなくていい。いちいち取り合ったり、考え込まないで」と言っていた。それを実際に実践していたから、彼は合理的な人間だったと思う。優しいかどうかは置いておく。そこも好きだった。
若い頃って多感だから感じるものが多かったんだと思う。今も多いけれど、30過ぎてからこれでも少しだけよくなった気がする。だって数日泣いてないとかある。
泣くことはデトックス。我慢しないで泣いたほうがいいよ。抱きしめてくれる人がいる人は抱きしめてもらって。動物がいる人は、うざがられても動物を抱きしめて。ひとりぼっちの人は自分のことぎゅってしてみてよ。私はたまにやるよ。
こんなことを書いているから今日は泣いていない日だと思うじゃない。しっかり泣いているんだから怖いよね。
さぁ、デトックス、デトックス。