※最終話の内容を含みます
『冬のなんかさ、春のなんかね』を観終えた。最終話は涙が止まらずぼろぼろになり、何度も休憩を挟みながら3日間かかって観た。わたしはこのドラマが心底好きだ。1話が現在を映し出した回で、少々突飛な展開となっており、そこから時を辿って文菜の今までの経験を振り返るという構成になっているため、序盤で脱落してしまう人がいるのも理解できるし、それを覚悟した上での制作だったのだろうとは思う。
主人公の文菜は複数の人に惹かれを感じることを自覚しており、恋人のゆきおと付き合いながらも小説家の先輩である山田と親密な関係になる。もちろん世間的に言うところの「浮気」ということになるのだが、話はそう単純ではないと感じる。文菜は過去のつらい恋愛経験から1人の人と向き合うのが難しくなってしまい、複数の人に自分の感情の置き場を作っているようなところがある。文菜のようにはっきりと他の人と親密な関係を築くわけではないにしても、わたしたちも感情の拠り所を複数の人に求めたりすることはあるだろう。
ポリアモリーやモノアモリーといった言葉ではっきりと線引きしなくとも、人間関係や恋愛関係は複雑で、時に曖昧だ。今恋人がいたとしても、昔の恋人を恋しく思うこともあるかもしれないし、恋人には話せないことを親しい人に話すことができるかもしれない。映画『パスト・ライブス』で描かれていた曖昧な感情のことも少し思い起こした。
「誠実」であることはどのようなことだろうか。それをずっと突き付けてくる作品だったように思う。文菜は結局、自分の行為が悪いものであったことを反省し、山田との関係を断ち、恋人に謝罪する。それが彼女のたどり着いた「誠実」さだった。ただ、同時に別れ話の後には、また簡単に人を好きになってしまうかもしれないと吐露する。文菜にとって、1人の相手に自分のすべてをさらけ出すことは難しく、耐えがたいことなのだ。それが「悪」と批判されようが、彼女はそうすることでしか生きられない。そんな文菜がもがきながらも何とか自分の進むべき道を探ろうとする様子はとても心が掴まれるものだった。文菜とわたしは違う人間だが、彼女のような人が抱える苦しみも想像できると思った。このドラマがそう思わせてくれた。他者の経験を想像してみること、そこから思いを巡らせること。
最終回が本当に素晴らしく、このドラマのよさが全部詰まっていた。文菜の周りにいる人たちのことも丸ごと肯定してくれるような、そんな終わり方だった。小太郎の「文菜は誰のものでもないですからね」という台詞にすべてが集約されている。わたしたちは、わたしたちのまま、進んでいかなければならないのだ。