チャン・リュル『群山』、『柳川』

kananika
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公開:2026/3/18

チャン・リュルの『群山』という映画に詩人の尹東柱が出てくるという情報を頭の片隅で覚えていて、配信で毎日少しずつ観ることにした。尹東柱は福岡の刑務所で獄死した人物で、ずっと関心があった。去年、書店で詩集を手に取ったものの、そのまま買わずにいたこともどこか気がかりな点になっていた。

『群山』は映像がとても美しく、すぐに引き込まれた。静かな映画で、派手な展開はないが、示唆に富む場面に溢れている。尹東柱と日本の植民地支配、ルーツをめぐる差別といったテーマが曖昧な関係で揺れ動く人の物語の中に極めて自然に差し込まれ、様々な言語が往来する。韓国で差別を受けることも多いという朝鮮族の人々の存在。この映画を観るまで知らなかったが、チャン・リュル監督自身が中国の吉林省の出身で、朝鮮族というルーツをもつ。映画の中では「歴史を知らない民族に未来はありません」という言葉が放たれる。

時系列もあいまって、あらゆる境界線が溶けていくような映画で、白昼夢の中にいるような感覚に陥るのだが、わたしたちの中に存在する矛盾を明確に突いてくる鋭さがある。余白を持たせながらも、強固なメッセージ性をはらんでいる、そのバランスの凄まじさに圧倒された。チャン・リュルがインタビューで話していたことが、まさにこの映画から私が受け取ったことのように思った。

「そうですね。とくに日中韓の3国というのは歴史的にもそうですし、現在でも色々と交流があり、わだかまりもある。そういう歴史の中で、私は映画人として国境とか線とか壁、人と人の間にある壁なんかも、映画を通してなくしていかなければならない、そういうものは必要ないということを訴える立場にあると思います。実際に色々な国の人が今この場所で一緒に笑って過ごしていますが、ちょっとした歴史観の問題でお互いが居心地が悪くなったり対立したりします。そういうことに対しても正直に笑いながら話せる、そんな人間関係・社会づくりもすごく大事になってくると思います」

『群山』を観終えて、あまりの素晴らしさに感動しながら、続けて『柳川』を観る。『柳川』は映画の舞台が日本で、言語としては中国語、日本語、英語が使われている。末期がんを患ったドンが兄のチュンを誘って福岡の柳川へ赴くのだが、そこで二人が思いを寄せていたチュアンという女性を見つけ、つかの間の再会を果たすという物語だ。

正直なところ、チュアンという女性を都合のよい存在として神聖化するような描写はあまりはまらなかったのだが、不思議と最後まで引き込まれてしまった。やはり、これも「言語の往来」による魅力が大きかったと思う。ドンは日本語でコミュニケーションをとることができ、チュアンも英語を話すことができる。兄弟が滞在する宿の主は池松壮亮が演じているのだが、彼も日本語と英語を話す。ただ、第一言語で話していないときは、お互いに言いたいことがはっきりと伝わるわけではない。聞かれたくないことは相手が分からない言語で話し出したり、お互い一切伝わらない言語で喋っているにもかかわらず、通じ合えているような奇跡的な瞬間が劇中では生まれている。言語のシームレスな切り替え、そして言語に頼らずとも感情は交換できるのだと証明するような人々の交流に心を奪われた。日本の描き方も驚くほど自然で、外部からの視点をまったく感じさせない。それは池松壮亮や中野良子といった俳優の演技の素晴らしさに起因するところもあるのだが、チャン・リュルにとっては舞台がどの国であるかはあまり大きな問題にはならないのだろうと思った。

そして、近いうちに死を迎えるであろうドンだけではなく、他の人物たちにもどこか憂いが漂う。夜の船に寝そべったり、ベンチに寝転んだり、どこかみな幽霊のように、現実味がなかった。それは『群山』とも共通する点で、現実世界と幻想の境目が曖昧になっていく。わたしもどこか知らない場所へふらっと立ち寄って、そこで誰にも知られないまま時間を過ごしてみたいと思わされるような映画だった。