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『海辺の一日』、『花束みたいな恋をした』を観た後に考えた労働と人間関係のこと

kananika
·
公開:2026/8/27

エドワード・ヤン『海辺の一日』は自分の個人的な体験と大きく重なる映画だった。もちろん、劇中の台湾はまだ女性の社会進出が当たり前ではない時代であり、簡単に比較することはできないけれど、資本主義や家父長制といった構造の中で徐々に関係性が壊れていくことは今の時代でも少なからず起こっていることであり、佳莉の痛みが手に取るように分かる気がした。

もうすぐ7年付き合った人と別れて2年が経つ。音楽、映画、政治、何でも話せる相手だった。別れの原因は色々なことが積もり重なったものだが、端的に一言で表すならば「労働」が関係を徐々に変容させていった。ちょうど4年目くらいから相手が正社員かつ長時間労働の勤務となり、側から見ても疲弊しているのは明らかで、いつも深夜の仕事終わりの連絡を待ちながら不安を募らせていた。仕事を変えてみたらどうか、有給は使わないといけないよ、健康診断にも行ったほうがいい。色々言ってみたけれど、相手には時間も余裕もなく他の選択肢を考えることが不可能な状態だった。どこかでぷつりと糸が切れてしまう気がして、そうなる前にどうしても手を差し伸べたかったけれど、何もできなかった。相手の人生は相手のもので、自分の人生は自分のものなのだと痛感した。佳莉が「今がほしい」と言っていたのがすごくよく理解できた。わたしも煌びやかな将来ではなく、健やかに過ごせる「今」があったらそれでいいとずっと思っていた。この社会では油断すると、どうしても仕事や競争にすべて奪われてしまう、それが悲しかった。

『海辺の一日』を観た後、『花束みたいな恋をした』も労働と恋愛の関係性について描いていると聞いたことを思い出し、配信で視聴することにした。序盤は固有名詞の羅列に圧倒されてしまい、なかなか入り込むことができなかったものの、二人の関係性が揺らいでいくあたりからその描写があまりにリアルで前のめりになった。就職をし、かつてあんなにも好きだった小説や映画に興味をもてなくなり、パズドラで時間を溶かす麦。本当はそこから抜け出して、元のような関係性を築きたいとはきっと思っているはずだけれど、そうするエネルギーがもう残っていないように見えた。この映画もまた、自分の体験を追っているようでなかなかにつらかったけれど、終わり方がとても好きだった。互いの人生が深く交差したにもかかわらず、別れてしまったら何も意味がないじゃないか、と思いがちなわたしにとって、あの結末はとてもありがたいものだった。

わたしは、2年前に人生が一度終わってしまったように感じられたけれど、別れるという結果になってよかったのだと思う。もうどちらの方向にも進む道がなかったし、一緒に時間を過ごしていてもずっと仕事の影が見え隠れしていて、すべてが侵食されてしまいそうだった。健康で楽しく一緒に過ごすというだけのことがあまりにも難しい。それでも純粋に楽しかった頃の記憶は少しぼんやりしながらも楽しいままで残っていてくれるのは救いかもしれない。あれからどうしているのかは分からないけれど、なるべく元気でいてくれたらと思う。

最近、滝口悠生『たのしい保育園』を読んでいてはっとする描写があった。

可能性というのは、若い頃はなまじ手が届く気がするから、ついつい得られるものはなんでも得ようとしてしまい、得られなかったものを悔いたりするけど、たぶん得られなかった可能性というのはそんな哀しみではなくて、誰かと思い返したり、写真を見たり、言葉にしたりできる私のこれまでの確かな人生を縁どり彩ってくれるものなんじゃないか。

得られなかったもの、と言葉だけ聞くと悲しいけれど、それも含めて自分の人生なのだと、胸を張って丸ごと包み込むことができたら。それがなかなかどうして難しいけれど、わたしの人生も出会いと別れがあって、それ自体が豊かなものなのかもしれない。この2年はずっと映画に救われている。