ひさしぶりの書く行為

思えば、こうして必要や要求に迫られない環境で、文章を書くのは、大学生ぶり、かもしれない。

当時はmixi全盛期(また、Facebookが日本でよく知られるようになってきたタイミング)、私や周囲の友人も例に漏れず、個人の程度の差こそあれど、何でもない日常やその時々の想いを綴る行為は決して珍しいものではなかった。それから少し時間が経つと、私が属していたコミュニティ界隈には、何となく個人でブログサイトを持つことがクール、であるかのような空気感ができあがり(当時、そう明確に認識していたわけではないが、振り返ってみると、そのような趣があったように思う)、mixi継続派と、ブログ移行派(mixiはROM専)に大別される動きが進んだ印象だ。私もその空気に流されるように、あるタイミングでブログサイトを開設。こうした途中にメディアが変わる節目はあれど、不定期ながらに自分の言葉を綴る習慣が、かつてはあった。

それから社会人になり、かなりの年月が過ぎたわけだが、前段に記述した過去が嘘であったかと思うほどに、ある種、無目的的に何かを書くという行為を本当に一切せずに今日に至っている(もちろん仕事では相応の文字数を書いてきた)。基本的なソーシャルメディアのアカウントも、ひと通り備えているわけだが、そこで行われる活動の99%は、受け手として何らかの情報を摂取するものに留まっており、やろうと思えば数秒で完結できてしまうだろうInstagramの投稿もアカウント開設時のプロフィール写真1枚のみが未だ尚、唯一の表現として君臨し続けている。

こうも習慣が変わった原因は果たして何か。一応、問うてはみたものの、直接的な原因はほぼ明らかであり、仕事(および直接的な仕事ではないにしても、それに付随する何か)によって、多くの時間と、脳のリソースを奪われる生活が常態化したことが背景にあるだろう。もちろん同じような状況下でも書く人は書くわけで、その意味では、文章を書くのは割と好きな方、と何となく自認はしていたものの、忙しい合間を縫って書くほどには好きではなかった、ということなのだろうか。

さて、そんな変遷がありながらも、環境も、人も変わるわけで、再びこうして書く行為を始めてみている。細く長く続くかもしれないし、一瞬の気持ちの揺らぎを起点とした思いつき、としてすぐに終わってしまうかもしれない。ただ、当然にそんなことを考えても仕方がないわけなので、とりあえず「なんとなく書いてみよう」と思い立ち、こうしてわずかに1,000字程度の文章を書き始めた自分を純粋に歓迎してみようと思う。

投稿サイクルや、テーマなど、何かの前提があると、続かない気しかしないので、とりあえず気負わず自然に、の精神と、そうは言っても少しは続けられるといいな、という自分への淡い期待を僅かに抱きながら、明日からの新年度を迎えてみることとする。

@kaneda50
「世界にあたらしい解釈を生む」という旗を掲げて、会社経営しています。