しずかなインターネットのことをわたしはしずネットと呼ぶことが多いのだけれど、しずネットの購読をちょこちょこと増やしている。理由はこの人いいなーという人の投稿を読もうとしたとき、検索しにくいからだ。一期一会のような機会を逃すべく、購読をする。大事な行動だ。
このしずネットにある他者と繋がる方法は2つあって、ひとつがコメントで、もうひとつが購読だ。正直に申し上げると、購読のほうがしやすい。なぜなら、コメントだとその記事をじっくり読まないと「ん? ちゃんと読んだの?」と思われそうだからだ。わたしの投稿に対してはもうなんでも、草でも、笑でも、うけるでも、コメントをいただけるならなんでもいいのだが、自分が書き手になるしずネットに於いて、そんなコメントはできない。書くならちゃんとしたためたい。なので、しずしずと購読をし、時間のあるときにじっくりとコメントをしたいと考えております。
そのなかで、とある投稿が目にはいった。「文章を書くことを生業にしている人とそうでない人には文章に違いがある。読まれる意識があるかないかだ。読まれる意識がない文章は、とてもイキイキとしている」といったものだ。もし、筆者のかたがお読みになっていらっしゃいましたら、勝手に引用してすみません……
私は文章でうまい棒が買える程度には毎月お金をもらっているのだが(それはもらっているといえるのか?)、どちらかといえばイキイキがわにいると思う。というか、文筆家のかたは褒めるのがめちゃくちゃ上手なので、それにおだてられてるのだろう。イキイキなんてしてません、ジメジメです、へへへ
さて、話の軸がぶれぶれですが、今回話したいのは「文章をいかに素のまま書くか、それとも見られる意識を持って瀟洒に書くか」といったところです。変換で瀟洒が出てこないのでwebからコピってきたら下線がついてなんだかダブルクォーテーションみたいになってしまった。許して。
その両者に甲乙をつけるわけではないけれど、見られる意識は文章を形作るうえで欠かせない要素になるだろう。つまり、筆者によって編集が加えられた文章は文法や用法に間違いがないので読みやすいし、筆者の意図を確実に伝えられる。これは大事だ。
これもまたとある文筆家の話なのだが、
書いていないことを勝手に読み取って何か言う人は、もともと何か主張したいことや怒りがあるだけ
という発言にめちゃっっっっくちゃグサグサささっており、というのも私がよくそうしてしまうからである。だが、私が保身するとしたら、そうとも取れるように書いているほうはどうなの? と思ってしまう。書いてる側は知ったこっちゃねーなのでしょうけれど。
それはそれとして、文章をきらびやかに飾るのは技術がいる。いわんや誰にでもわかりやすく書くことをや。文筆家あるいは編集者になりたいと望んでいるものからしたら、わかりやすくかつ煌びやかに書くことが最も大事になることだろう。先生、転職したいです。
やだね。自由にイキイキと書いているだけではそちらに近付けない。わかりやすく、かつイマドキの言葉で言えばエモく、書かねばならない。そんな力がない凡人にできることはあるのか──
あることがあるとすれば、文章の末尾でうまくまとめることだ。私には力がない。しかし、終わりよければすべてよし、終わりを良くする技術は必要だ。