TwitterやMastodon(特にjp)はその雑多な投稿ゆえに「ドブ」だとか「石の裏」だとか、ややネガティブな俗称がつけられることがある。まあ、その名に相応しいほどにキツい発言、そぎぎな投稿が散見されるので仕方がないのだが、ユーザーのなかにはそういう風に呼ばれることを快く思わない人もいる。そりゃそうだわな。自分の使っているSNSをそんな風に言われたんじゃたまったものではない。
そんなアンダーグラウンドな環境に存在する自分のことを肯定的に発言する人もいる。
「自分はキラキラしていないから/陰キャだから/立派じゃないから、ドブの方が住みやすい」
といった具合に。
では、「自らの使用しているSNSのことを悪く言う人、そんなSNSの居心地が良いと言う人」はなぜそういう発言をするのだろうか。そう発言する人の自己肯定感が低いからなのだろうか。
私はそうは思わない。いや、自己肯定感が低い人もいるのだろうけれど、自己肯定感が低いからそういう発言をするのでは一概には言えない、と思う。というのも、私がアカウントを持つ某鯖のことを「石の裏」と私自身が呼び、「石の裏だから居心地がいい」との発言をしばしばするからだ。
たしかに私は自己肯定感が低い。だけれど、とあるユーザーが上記の指摘をするまで、「自己肯定感の低さ」と「SNSを蔑称し、そのSNSに居続ける」こととが結び付いてなかったのだ。あーーーそういう考え方をする人ともいるのかーーーと新たな気付きを得た感覚がしたのだ。
では、なぜ私が某鯖のことを「石の裏」と呼ぶのか。そして、なぜそんなところにいるのか。今回は私の持論なので、他の人がどう思っているかはわからないが、私なりの考えを綴っていきたい。
ドブのほうが住みやすいと言った人は「Aはダメだ、でもAでいいんだ」のように、最終的には現状を肯定しているように映る。なぜなのだろうか。ダメなところのどこがいいのか。
ドブってのは、遠慮がいらない快適さを自虐的にキツい言い方をしているのだと思う。貶す意味で言っているのではない。
パリ市長がXのことを「下水道ような場所にはいれない」と発言してアカウントを退会した、というニュースがあったそうだが、それは貶す意味で使っているのはわかる。だが、それでも居心地が良いというひとは、果たしてそのSNSに多大なる嫌悪をいだいているのか? そうではないように思うけどなあ……
端的に言えば「愛着」である。
ドブ、は言いすぎだけれど、下町、と言い換えても通じると思う。キラキラした都会みたいなSNSは苦手だけれど、ちょっと古くてきたならしい下町のSNSが落ち着く、的な。そういう風にして使っている人がいることも知ってほしいものだ。
ドブのなかでもぬくぬくと過ごすのは、私のようなチクチクした考えを持つユーザーでも「まあ、そんな考えもあるよねー」と軽くスルーしてくれるからだ。キラキラした場ではそのキラキラを保つために、異質な投稿は好まれないどころか追い出すような圧が発生する。だが、多くの人がいる場ではそんな圧力は発生しない(もっとヤバい人がいるから)。そんな場が好きだから、私は今日もドブで過ごすのだ。