先日、とある重要な「判断」をしに某所へ向かった。用事が終わったあと、すっかり気が抜けてしまった。帰りの電車は大混雑で、ドアの側にぴったりと立つしかないほどぎゅうぎゅうになっていた。さながら私の脳内のようであった。あらゆる「未知」で詰まった思考のなかで、私は正気を失いそうになった。スマホをさわる余裕すらなかった。
車窓から外の夜景を眺めると、マンションのひとつひとつの灯りがやけにまぶしかった。そこには人が住んでいて、そこでの生活がある。その暮らしがいいものか、わるいものかの判断はできないが、それなりにちゃんと生活しているのだろう。しかもぽつんと一軒家ではなく、何十、何百、何千といった規模の灯りだ。どれほどの人がこの世界で暮らしているのだろうか。ひとりひとりの生活を想像して、都会での暮らしっていいのかな、なんて思うと同時に、こうも思った。
「私はその生活をすることはできない」
当たり前なのだが、妙に心がざわざわした。今のままの生活を続ければ、きっと、そうはなれない。かといって、今の生活を放棄することもできないような気がしている。私は車窓に映るような灯りをともすことはできないし、ここの人と同じような生活もできない。などと、同じことを別の言葉で言い換えた概念を、今にも噛めそうに小さくなったあめ玉をしぶとく、もったいぶってなめるかのように、しずかに考えていた。結論は出ている。今のまま進むしかないとわかっている。でも、でも、と無駄にコロコロと脳内で思考を転がすのであった。
となりにいる立っている人はスマホを眺めてなにやらにやにやとしている。この人にはなれない。後ろでつり革に捕まっている人は疲れ果ててうとうとと目を閉じている。この人にもなれない。私は私であるしかないのに、でも、どうしても他人が羨ましく見えてしまう。たぶん、将来が不安なのだろう。
田舎に近付くに連れて、ひとり、またひとりと電車から降りていき、それに連れて、しょうがないか、と思えるようになってきていた。その生活ができないことに対して諦めにも近い感情をいだくのは正しくないと思ってはいる。ただ、今の生活を放棄することを決断することで、私が幸せになれる保証もなかった。決断するということは、手放すことである。そして、結果の予測がまったくできない決断は論理的にすることはできず、結局は直感に頼るしかないのだ。直感的に決断するならば、今のままで良いように思えている。それは過去にしてきた決断に対して私がそれなりに満足しているからで、その決断によるあらゆる不自由は新たに決断することで回避できている。ゆえに、現状を肯定することが最善策なのだと信じているのだ。
手に入らなくなるという決断、それはとても怖いことだが、その決断は私の自信に繋がるだろうと信じている。