愛されたいなら愛さなきゃ

kanen
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というタイトルだといかにも「私が愛されているのは、私がこんなに周りの人を愛しているからです。返報性の法則です。だから、皆さんも周りの人を愛しましょう❣️」みたいな記事だろうと想像するだろうが、ひねくれている私はそんな記事は書かない。

SNSをみていると、うわーこの人愛されているなーと思うことがある。その人自身、投稿は愛らしさの塊であり、光のような人であり、多くのユーザーからの寵愛を受け、その分多くの人に同じく愛を振りまいている。すごいなー、と思う。

そういうあなたは愛されたいのか? と聞かれれば、もちろん愛されたい。みんなから愛されて、あだ名で呼ばれたり、個人タグのようなものを勝手に作られたりしたい。しかし、私には愛想を振りまくほどの可愛らしさもないし、そういうプリティな投稿ができるほど性格がまっすぐではないので、こうやってしずしずと、チラシの裏に文を書くようにしてしか生きられないのだ。

※チクチク注意報※ ここでくらい好きに書かせてーーーー!

嫌な気持ちになったらごめんなさい…… あなたのことを表現しているんじゃないからね。どうか誤解なさいませんように……

愛されたい、というと語弊がある。愛されたいということばは割とアバウトな言葉だからだ。適当に顔とか手とか足とか声とか、そういったパーツを出して意味深な言葉をつぶやけば、割とちやほやされるに違いない。だが、それは愛されているといえるのか? 人によっては「アイドルだってモデルだって声優だって、そういうパーツを魅力的にみせられることで仕事になって、愛され、ファンができている」とかなんとか言われそうだけれど、私はそうやって愛されたいのではないような気がする。やってみたら割とそんなに難しいことではないのかもしれないけれど、ネットにそれらを晒すことに抵抗があるし、そうやって愛されても、なんか嬉しくないような気がする。これは容姿や声に自信がないからでもあるし、それらを褒められてもうまく嬉しくなれないからかもしれない。オフ会にためらいがあるのもそういったわけもある。

じゃあ、どこを愛されたら嬉しいのか、と聞かれたら文章を褒められたらとてつもなく嬉しい。なので、これをみた人は引用してバンバン拡散してもろて──嘘です、ひっそりと読んでもらえればそれだけで嬉しいです。

文章で愛されたいなら、文章を書いて愛してもらわなきゃいけない。この記事のタイトルには(文章を)愛されたいなら、愛さなきゃ(書かなきゃ)という思いが込められています。

書くことしかできませんが、この書く私を愛してくれる読者さまがより増えますように、と祈念して、日々を過ごしております。

@kanen
長文でお気持ちをツラツラします。チクチクめです。