最近はおかげさまで色々なものに触れて人生を謳歌しているけれど、ピアノ、イラスト、文章、ゲームといった具合にジャンルごとに「手を付けるハードル」がかなり違うように感じる。
というのも当たり前で、ゲームやピアノといった「もう触れた瞬間に楽しい」感じに作ってあるものは、手を付けるまでのハードルがとても低い。反面、クリエイティブ関連は、おれはどうやら少しハードル高めに感じているようだ。もっと気楽に、呼吸をするようにイラストや文章を描けないものかと思い、とりあえずしずインをしたためている。
ところで、このハードルというのにはパッと思いつくところでは2種類あり、行為そのものが「楽しい」と思える段階に達するまでの助走という意味でのハードルと、成果物の出来に対して自分で勝手に設定してしまうハードルだ。
では1つ目の「行為が楽しくなってくるまでの助走」について考えてみる。ピアノやゲームは瞬間的に楽しくなってしまうので除外するとして、絵や文章はキャンバスやテキストエディタを開いてから、ある程度つくっているものが形になるまでは、ちょっと楽しさが薄い。ピアノやゲームがこってり濃厚とんこつラーメンのスープだとすると、イラストや文章は塩味を抑えたすまし汁だ。滋味深くて、「美味いね……」とは思うけど、はじめから強烈な快楽物質は出ない。
日常的にお絵かきをしている方々の様子を見ると、もうこれはなんだか「当たり前の行為」であるから、それほどハードルを感じていなさそうに見える。いや、それももしかすると勘違いかもしれないが、少なくともおれよりは自然体に見える。
なんだか少し正体が見えてきたような気がするけれど、ここに魔法は特になくて、ただ自然体でその物事を行っているかどうかにかかっているのではないか。ペンを走らせた瞬間に、脳汁がドバドバ出るような、そんな人は居ない気がする(居たら紹介して下さい)。つまりはそういうことなのかも。行為が楽しくなる工夫をするよりも、行為を自然なものとして取り込んだほうが、これについてはうまくいきそうだ。じゃあ1つ目のハードルの話は終わり。
2つ目の「自分で勝手に設定してしまう、成果物に対するハードル」についてだけれど、これに関して、おれはかなりハードルを下げるのが得意だという自負がある。それでもまだ「ヘタなものは出せないよなあ」と思ってしまう瞬間がある。このおれでもだ!
ただね、絵でも文章でも、うまくなるには作って見せての繰り返しだってことは、もうここ2年ほどで身にしみてわかっているから、ここのハードルは取っ払わないといけない。そのかわり、上手い下手ではなくて「なにか一つでも好きな部分があるかどうか」を気にしてみるのが良いかもしれない。いや、これはあくまでまだ仮説だから、一旦保留にしてほしいのだけど、それでも、好きかどうかっていうのはものづくりの本質であると思うので、大きくハズレてはいない気がする。
例えば、この文章をつくっているときだって、単なる思考整理の文章にも関わらず、やっぱり少しは読みやすくしなきゃなとか思ってる部分はある。じゃあ「好きな部分」はあるかな、どうかな。ざっと読み返してみると……
あれ? なんか好きっていうよりは、この文章を人に見せることで、おれの考え方を知ってもらったり、万が一の確率で他人の役に立ったり、直接的に役立たずとも、誰かの思考整理のきっかけになったりするかもしれない。そしてもしそうなったら、とても嬉しいな、という気持ちだ。
じゃあ、もし自分でハードルを設定するのなら、「好きかどうか」ではなく「嬉しいかどうか」を基準にしたら良いのかな?
たとえばイラストを描いたとする。特にテーマや課題を決めずに取り掛かって、いつも描くくらいの出来で完成したとする。この場合、技術向上といった意味での嬉しさはない。でも、「今日もイラストを描けた」という嬉しさはある。さらに人に見せて、反応を貰えたら、それも嬉しい。万が一でも、それで誰かが癒やされるかもしれない。そうなったらやっぱり嬉しい。
この考え方はかなり良さそうだ。
だって、このメソッドでいくと日々技術を向上させる必要もないし、新しいことをする必要もない。ただ、作って、人にみせるだけ。なんなら見せなくても良い。やるだけでいい、それだけでも嬉しくなれる。
というわけで、イラストや文章になかなか手がつかないな~という問題については、どうにか自然体にそれを行えるように工夫をしてみようと思う。特に何か作ろう!うまくなろう!って構えるんじゃなくてね。
そして、成果物に対しては、上手い下手ではなく、それを作って「嬉しいこと」がほんの少しでもあるかどうか、そういう基準で考えてみよう。我ながら良い所に着地できたな。これもまた嬉しいことだ。