自分では自然とやれていることなのに、他人からは褒められることがある。
これは逆もそうで、とてもおれには信じられないと称賛している他人の行為は、当人はごく自然とやっていることだったりする。
さて、この「自然とやれている」とは一体何なのかというと、おれが思うにその人にとっての「虫の居所」というものが大きく関与しているように感じる。
例えば、習慣化というものがある。
毎日やるのが苦痛だと思っていたことが、無理矢理にでも続けていくうちに不思議と定着する現象のことだ。定着にはキーとなる感情があると思っていて、これは「もったいない」の心だと考える。
例を挙げると、おれには以前、毎日かならず1枚はイラストをアップしていた時期があり、これは驚くことに1年半ものあいだ続いた。500枚は我ながら途方も無いと思うが、この行為を支えたのはおそらく「もったいない」の心である。
初めはすぐにでもやめて良いかと思うのだが、50日、100日と続くと「ここでやめてしまうのはもったいない」と思い始める。毎日イラストを描いてる自分、というものを手放すのが惜しくなるのだ。改めて考えるとしょうもないが、やってみればきっとわかるはずだ。
これが、おれの思う「虫の居所」である。つまり、ここで折れる自分は「嫌だ」といった感情だ。
様々な偉人たちの偉業に対して「なぜそんなことが出来るのですか」と聞けば、おそらく色々なことを言うかと思うが、実際のところその半数以上は「それを自分が“していない”という状態が“嫌”」と思っていることであろう。
「志がある」ということは、言い換えれば「志に則ってない自分は居心地が悪い」となる。
「こうありたい」という心は「こうはありたくない」の裏返しだ。
実は、この仕組みを意識することで、自分が「なぜやれないのか」についても、よく観察することができるようになる。
自分がやれないのは、それを“やれない自分”というものが、別段「耐え難くない」のだ。
最悪、やれなくてもいいや。
と、いうことである。
さて、人によってはこの時点で自分の意識の低さに絶望し、すべてを投げ出したくなっている者も出始めたかもしれないが、そこで改めて、はじめに挙げた「習慣化」の例をよく観察してみるべきである。
この例から読み取れるのは、つまりそうした「志」や「プライド」といった虫の居所は、急に、自然と、不思議に、どこかから湧いて出てくる物ではないということだ。
どうしても「無理矢理に」続けるというタイミングが、確実にある。むしろ、そうやってハードルが高いからこそ、乗り越えたときに「惜しく」なるのだ。それをやめてしまうことが。
なので、自分には大層な志がないからといって絶望することはない。そんなものは、まず手を動かしているうちに、後から勝手についてくるものだからだ。
毎日風呂に入っていれば、やがて入らない日が「嫌だ」と思うようになる。つまりそういうことである。