書き手、読者、作品内の人物たち…時間と空間…が入り乱れて、いつの間にかそれらの関係性が判明ではなくなっていくこと。それは大それた営みではない、ありふれた書く/読むことのなかで幾度も繰り返されきたことであるが、そのつど「はじまり」の契機がある。
読者である「私」は、現実世界とは別の次元から、何らかの変化の兆しを受け取りたいがために、その営為を行っている。人物や出来事や時空間が判明ではなくなるような、ありふれた、それでいて奇妙な経験をしながらも、しかし、後には特定の時代に書かれた作品の言葉だけが残っている。さらに、このように書いている些細なものも含めた自分の言葉が、あるかなきか残されていく。その行為自体は、決して自律したものになるはずはない。作品を読むことが、関係性が判別不可能になる経験であることと同じように、その影響がどのようなものになるのか(つねに/未だ)予見できぬまま、言葉の残響が現実に反響する。
作品を読むことによって様々な解釈が、「自由な読み」とは裏腹に張りめぐらされた数々の制約の中で生み出さていくことは、とても魅力的なことだし、それぞれの内実を考えてみることには、もちろん興味がある。しかし、私はそれを生み出す、何と言うべきか、原理、そのものの方に関心が向かっているようである。そうなると言葉はいっそう抽象的なものになっていき、よっぽどのことがなければ混乱していくのがオチなのだろうけれど、一つひとつの個別具体的な作品の中で、その原理のようなもの(=はじまり)が、それぞれ差異を伴いながら別の形をまとって反復されているその様相を、いくらかでも言葉にしていくことに、いまは面白さを感じているのだと思う。
読書の経験についての複雑さが、普段の認識とは別のものになった知覚(時間や空間についての)を開く可能性があること。
テクストを読む(さらには別のテクストを書き出す)という、特定の時空間に制約されない経験――書かれた言葉が物質性を伴っているように、自律した強度の力を持つべきだが、かと言ってそのまま動きを止めた固定したものにはなっておらず、むしろ別の知覚を開く「はじまり」に向かって開かれている。
そう、いつも、はじまりを探し求めるように言葉を読む。書き出しの言葉、作品の冒頭だけが、その手がかりになるとは限らない。読むことの喜びや快楽? いや、それ以上にむしろ疲労にとり憑かれながら、手探りしている。いつどこで、はじまりの言葉に出会うのかも分からぬままに――いつか記憶の中で出会うのかもしれない。
書き手の身体(それこそが文体 style を生む)にいかに触れるか。どんな言葉も書き手の身体を伴うことなしには生まれえない。そして、彼/彼女の身体性を伴った言葉が、現実を生きる読者である「私」の身体にいかに触れてくるのか。現実に、どんな影響を及ぼすのか。もちろん、言葉と現実は直ちに影響を与え合うような関係ではない。むしろその間の断絶の方が顕著に現れる。しかし、その断層の間隙にこそ強度が潜在する。