二人して野っ原のほうへ出ると、ちょうど梅雨時の、ついさっきまで酒場の低い屋根をけたたましく叩いていた雨がいっとき小降りになったところで、家々に遠巻きにされた野っ原の地面から白い靄が立ち昇り、見る間にもさらに湧いてくる。それを北本は眺めて、黄泉のことだが夜の、黄泉だからむろん闇夜の底を、暗い川が流れるともなく流れていて、境も分かたぬ闇を刻々と吐き出しているそうだ、古代の詩の伝えるところだ、と話した。それを聞いて坪谷の内にとっさに用心がはたらいたらしい。闇の中へ、闇が、闇を吐き出して、どうなる、とまだ知り合ったばかりの間なのに遠慮なく突き放すと、北本は坪谷の顔をしげしげと見た。
――古井由吉「白暗淵」
あらかじめ書くことを決めないままに、こうして文章を書き出そうとすると、たいてい言葉を「書くこと」(または「読むこと」)にまつわる考えがきっかけになって、それをもとに文章を起動させる癖が、私にはある。言葉についての思考を、他ならぬ言葉によって行うということの厄介さというか、その堂々めぐりが、あまり有意義な認識をもたらすことがないのは、今さら指摘するまでもない。ましてや言語学とか言語哲学に対してまともに触れたことのない人間がやることだから、たかが知れている。
何も書くべきことが見当たらないからといって、たとえば、ではなぜそれでも書こうとするのか、と問いを立てて書き出すことほど容易なことはない。いままさにペンを握っている、キーボードを叩いている、この指がすぐそこにあって、自ずと視線が、その身体の行為自体に、書くことそれ自体にそのまま向かって行っているだけだから。改めてこう書いてみても、まったく当たり前の話をしているようで、苦笑するしかない。
文学作品について感想やら批評めいたものを書こうとするときにも、書かれた/書かれる言葉にまつわる視点(書くことと読むこととの、書き手と読者との、作品と現実との関係性、など)から書き出すことが多々あって、そのままそれが主題となり、結論まで進んで行ってしまうこともしばしばだ。とうに廃れた死語(?)を使うなら、それは「メタ的」とも言われたことだろうけれど、分析の仕方として、それ自体は一番安易な方法であるように思える――書かれたものはどんな形式や内容であっても、その観点から語ろうと思えば、いくらでもできてしまうのではないか。
もちろん巧拙があり、その主題に関して面白い議論を展開している文章が数多くあることは承知しているが、それに比べると自分の文章はどこまでも堂々めぐりしているような、混乱した様相を呈しているようで仕方ない。そんなことを最近になってようやく実感しているが、そこからうまく身を逸らして行かないと、延々と同じところを彷徨い続けるだけで、そのまま停滞してしまうのではないか……それともこれは、自分の抽象化のセンスや論理性のなさの問題? しかし、ここでまたネガティブなことをわざわざ並べ立てる必要もない。そういった主題のようなものに反発しながらも、自分がどこかで惹かれてしまっているのも事実なのだから、その理由について積極的に書いていくことの方が、少しは思考が別の軌道を描いて前へ動き出すかもしれない。
(240207)
闇が闇の中へ闇を吐き出してどうなると言ったな、言われて俺も何も思い浮かべられなくて驚いたよ、まったく見えないので目がくらくらするという逆もあるんだ、とつぎに会った時に北本は持ち出した。どこからどこまでも一体に闇だったと言って済ませておけばよさそうなものを、昔の人間も余計な言葉を労したものだ、しかし闇が闇の中へ闇を産むというのが、混沌というものだ、混沌は世の初めだ、思えないものを人は思おうとする、と言う。太初〔はじめ〕という白墨の文字が寄せて来て坪谷はそれに反応したらしい。混沌も物あってのことだろう、その混沌とした物の前には何があった、と理に走った。そこだよ、と北本は受けた。混沌とは何もなくそれ以前もない状態を言うのだ、太初とはそこから前は何もあり得ない境のことだ、とにかく始まりだ、どこまで遡っても始まりとしてあるのだ、と答えた。それでは言っても何も言わないのと一緒じゃないか、と坪谷は振り払った。そうだよ、同義反復のようなものだ、人の言葉は詰まるところまで行けば同義反復にしかなりようがない、と北本は苦笑して、それで切りあげるかと思ったら、しかし初めという境は人の現在に、つねに内在しているとも考えられる、とまた厄介そうなことを言い出して、しばらく考えこむようにしてから、男と女が交わるのも、性欲に駆られて、よせばいいのに、初めをたずねるのにひとしいことをしているのではないか、と言って黙りこんだ。
――同上
すでに過ぎ去ってしまった特定の時代を生きた作者によって書かれた一つの作品を、読者がいまこの現実(それもまた特定の時間に属する)のなかで読んでいるという、その経験を改めて記述しようとすることは、あまりに単純なものであるがゆえに困難な試みなのかもしれない。さらにまた、一つの個別具体的な作品をとり上げるのだから、作中に流れる時間について、作品空間で行為し思考する人物たちやそこで起こる出来事について、そしてそれぞれの意味内容を考慮に入れて論じないことには、当然意味がない。ごく当たり前のことであるが、しかし、それだけでも事態は十分複雑なものに思えてしまう。
複雑なのは、作中にものを書き・読む人物が登場するとか、書き手自身が作中で自己言及的に語り出すとか云々、そのように何層も入れ子状になった作品についてのみに限った話ではない。便宜上であってもそれらを「メタ的」だったり「自己言及的」とわざわざ説明することすら野暮に思えるのは、そもそも書かれたものはどんなものであっても、つねに言葉そのものについての思考を孕んでいるからだ。だから、こんな風に改めて「言葉についての言葉」の、その性質について書いてみようとするたびに、延々と同じところを巡ってはまた振り出しに戻ってしまうかのような、閉塞感がはなはだしい。
(240209)